もう10年以上前、フィンランドを代表するオーケストラ、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した時のことです。
演奏会も無事に終わり、オーケストラの事務局長から、「楽員が集まるバーがあるから来ませんか?」とお誘いを受けました。翌朝7時半の飛行機で、当時在住していた英ロンドンに飛ぶ予定でしたが、本番後の興奮もあり日付が変わっても、お酒にめっぽう強いフィンランド人の楽員にどんどん勧められ、結局ホテルの部屋にどうやって帰ったのかもよく覚えていないほど酔ってしまいました。あとから記憶をたどってみると、当日演奏した曲の作曲家に送り届けてもらっていました。
翌朝、5時に目覚ましに起こされて焦りました。荷造りをしていなかったことに気づいたのです。それなのに、30分後に空港へ向かうタクシーが迎えに来るという状況で、身支度、着替え、チェックアウトまでしなくてはなりません。
通常は、本番前日のリハーサルにやってきて、翌日のコンサートで弾くだけのソリストとは違い、指揮者は3日間程度のリハーサルを午前、午後としっかりこなすので、本番を迎えるまでの間、1週間近くホテルに滞在します。指揮というのは全身運動なので、下着だけでもたくさん持ってこなくてはなりませんし、リハーサル用の服や本番の燕尾服なども含めれば、トランクにきっちり入れないと閉まらないこともあるほどの量になります。
ところが、飛び起きてトランクのところに行って驚きました。なんと、きっちりと荷造りされていたのです。考えてみれば、目覚ましをかけた記憶もありません。子供の頃に読んだグリム童話『「小人の靴屋」を思い出しました。売れない靴屋があきらめて寝てしまい、夜のうちに小人が立派な靴をつくっていたという話です。まるで僕のトランクの荷物も、小人がまとめてくれたようだと心の中で笑ったものでした。僕自身が夜中に、仕事柄これまで何度も何度もやっていた作業でもある荷づくりを、酩酊しながらも無意識でやっていたわけでしょう。
落雷でピアノ演奏の才能が開花
そこで、ある話を思い出しました。昨年、イギリス国営BBC放送や、アメリカのニューヨーク・ポストでも取り上げられて話題になった、イギリスを拠点に活動しているアーティスト、リー・ハドウィンさんの話です。
彼は、自らを「眠る芸術家」と名乗っているのですが、彼が就寝中にベッドからふらふらと起きだして、紙に絵を描き始めたのは4歳の頃でした。しかし、目を覚ましている昼間に描いた絵はまったくひどいもので、高校時代の美術の成績は散々だったそうですが、眠りに入ると夢遊病者のように起きだして、あらかじめ用意してある鉛筆や絵の具を手にして、芸術的な絵を一心不乱に描き始めるのです。そして、急にやめてベッドに戻っていくのですが、今や数十万円の価値で取引されている芸術的な絵を、自身が夜中に描いていたことなんて、まったく覚えていないそうです。
脳というのは、まだまだ解明されていない部分があることが知られています。これも一例だと思いますが、脳を損傷した体験を経て、これまでまったくなかった才能が開いた人もいるようです。
それは、ある事故をきっかけに、それまでほとんど弾いたことがないピアノを急に弾きだして、ついにピアニストになったアンソニー・チコリアさんです。現在はトニー・チコリアという名前で現役のピアニストとして活躍しています。
1952年にアメリカのニューヨーク州で生まれたトニーさんは、7歳の頃に母親の勧めで1年ほどピアノを習ったことはあるものの、たいして興味が湧かずに辞めてしまい、その後、大学の医学部を卒業し、整形外科医になりました。そんなトニーさんに1994年のある日、事件が起こりました。
トニーさんは家族とピクニックを楽しんでいましたが、その日、空には厚い雲が立ち込めていました。彼は自宅にいる母親に電話するため、公衆電話ボックスに入ったとたん、雲から稲妻が走り、電流が受話器を通じて彼の頭を直撃したのです。トニーさんは、そのショックで地面に倒れ、すぐに病院に運ばれて一命をとりとめたのですが、その後、2週間ほどは頭に霧がかかったような状態が続いたといいます。頭が晴れてきたような感覚を得ると同時に、なぜかクラシックピアノを聴きたくなり、それは押さえられない感情へと膨らんでいったそうです。
トニーさんは、それまではクラシックよりもロックが好きでした。しかし、とうとう自分でもピアノを弾きたくなり、退院してからはピアノに夢中になりました。そんな時に、自分が演奏会で弾いている不思議な夢を見る体験をしたのです。夢の中で演奏した曲は、これまで聴いたことのないもので、それ以来、頭から離れなかったそうです。しかし、楽譜の書き方を知らなかったので、初歩から音楽を学び、夢の中で一度しか聴いたことのない曲を楽譜に完璧に書き表したのです。そして彼は、この曲に「稲妻のソナタ」とタイトルを付け、ニューヨークのコンサートホールでリサイタルデビューまで果たしました。
急にピアノの才能が開花したことも驚くべきですが、一度しか聞いたことのない音楽をずっと覚えていて、楽譜に正確に書き写すことは、誰にでもできることではありません。
トニーさんは医師ということもあり、自身のプロフィールのなかで「サヴァン症候群」について触れています。並外れた天才に多いといわれているサヴァン症候群は、生まれつき自閉症をはじめとする発達障害のある人が、特定の分野で優れた能力を発揮する状態をいい、記憶力、芸術、計算などに高い能力も有する人が多いといわれています。トニーさんは、落雷による脳の怪我による「後天性のサヴァン症候群」と自身を紹介しています。
モーツァルトもサヴァン症候群か
一度しか聞いたことのない音楽を、ずっと頭の中に留めておいて、それを完璧に楽譜に書き起こす。これを聞いて、クラシックファン、特にモーツァルトに興味がある方なら、あっと思われたのではないかと思います。
幼少時から神童と言われていたモーツァルトが、イタリアを訪れた13歳の頃の出来事です。この天才少年は、ローマのヴァチカン大聖堂・システィーナ礼拝堂内で、門外不出の秘曲、楽譜すらも持ち出すことが強く禁じられていたグレゴリオ・アレグリ作曲の『ミゼレーレ』を聴く機会がありました。その後、宿に帰った際、たった一度しか聴いておらず、しかも9つの違う声部が一斉に演奏される、とても複雑な曲を頭の中に正確に覚えていて、さらさらと楽譜に書き出し、父親のレオポルドを驚かしたのです。
実は、モーツァルトもサヴァン症候群であったという説を唱えている研究者は多くいます。サヴァン症候群に特有の、音楽を一度聴いただけで再現できる能力だけでなく、モーツァルトが母国語のドイツ語をはじめとして、幼少時から英語、フランス語、イタリア語もあっという間にマスターした点も、サヴァン症候群の語学に対して常人にない天才性を発揮するという特長に当てはまります。真偽のほどはわかりませんが、常人の能力をはるかに超え、神様がつくったような美しい音楽をモーツァルトが残してくれたことは確かです。
(文=篠崎靖男/指揮者)