今から2年あまり前、品川駅構内と品川・田町間で、日本で初めての鉄道の施設が発掘された。開業当時の資料は比較的多く、遺構が残っていることはわかっていたものの、営業中の線路が載っていたために確認できなかったのである。150年前の錦絵で描かれた情景が、令和の時代に、目の当たりにできるという幸運に感謝したい。
私は高校生の時に、鉄道百年にあたり国鉄で百年史を編纂していた修史課に足しげく通って開架式の書棚に置かれた古い文書を書き写した。父親が東京鉄道管理局で、若くして死んだのだが、二階級特進で本社の辞令を受けた。その同僚達が修史課で働いていた。著書があり画家の内田克己さん(同姓同名が多い)も、その一人であった。
JR東日本は上野東京ラインを建設して、東海道線の電車を東京駅をスルーさせることで都心の車両基地の縮小が可能となり、品川と田町の間の広大な車両基地を東側の半分程度の面積に縮小した。それに伴い、明治以来の古い線路敷を走っていた山手・京浜東北線の線路を東側に大きく移設し、そこに高輪ゲートウェイ駅を新設した。
この大掛かりの線路移設工事の中で、昔の遺構が発掘されたのである。令和元年4月には、品川駅改良工事において石積みの一部が見つかり、令和元年11月に、高輪地区の線路の付け替え工事に伴い。明治5年に開業した新橋・横浜間の当時の築堤が確認されたのである。
田町・品川間では、海の中に築堤を設けて線路が敷設されたが、この工事に取り掛かったのが、明治4年6月であった。現在の暦では7月の半ばということになる。今からちょうど150年前のことであった。明治5年5月7日に品川~横浜間を仮開業したが、今の暦に換算すると6月12日である。つまり今からちょうど149年前、日本初の公共鉄道が運行を開始したのである。
築堤の建設
もともと新橋から品川までは陸地を走る予定であったが、明治3年に測量が始まると、政府の内部から反対するものが現れた。予定区間に所在していた兵部省の用地の引き渡しを要求したが、強硬に反対され、測量者が逮捕されるという事件も発生した。西郷隆盛も、鉄道建設は外国の興隆ぶりを羨ましがっているもので不要不急とし、むしろ兵力の増強に努めるべきと主張していた。
また、一般の庶民からも反対された。渋沢栄一の懐旧談によると、「当時政府部門にも反対が有ったが、殊に沿線住民の反対は頗る猛烈で、一機発動の様な騒ぎまで起した。無知な農家や旅籠屋の主人、馬子、車曳、駕籠屋の連中など、皆銘々の死活問題であると云うので反対運動に狂奔し、無法にも試験的に架設された京浜間の電線を切断し、電柱を倒し、工事妨の直接行動に出で、或は監督役人を襲撃した」(『日本鉄道請負業史』明治編)という。
その結果、新橋~品川間は東京湾の海上に築堤を建設することになった。埋め立ての土砂は、御殿山と八ツ山を切り崩して、最初は荷車、牛馬車を使い、のちには機関車が到着してから仮線を設けて土運列車を運転した。
日本初の公共鉄道の開業
明治4年8月新橋・横浜間のうち、横浜側の線路の敷設が一部完成。車両も一部が組み立てを完了して、試運転を開始した。これに先立って工部省は、神奈川県と品川県に対して一般人の線路内立ち入り禁止の禁止について文書を発出した。
品川・横浜間の仮開業が明治5年5月7日。高輪と高島の築堤以外は複線の用地が用意されたが、この時は全線単線での開業であった。この日は2往復だけの運転で、全区間を35分で走行した。翌日からは6往復に増加。さらに、6月5日には川崎駅と神奈川駅が新しく営業を開始した。川崎駅での対向列車との交換があり、所要時間が40分に延びた。7月8日には、8往復にまで増加。本開業前でありながら、鉄道の物珍しさと、東京と開港場である横浜を結ぶことによる国内外の乗客でにぎわったという。
9月12日、太陽暦では10月14日、新橋~横浜間の本開業となった。当日は通常の列車の運行は行わず、お召列車1往復、祝典参列者送迎1往復、式典警備の近衛兵800人を輸送するために3往復が走行した。
日本の産業化と輸送力増強
その後、高輪築堤にかかわる大規模工事としては、明治9年12月1日の新橋~品川間の複線化と田町仮停車場(翌年廃止)設置が挙げられる。築堤自体は単線で建設されていたので、陸側の擁壁を崩して拡幅したことになる。複線は、少しずつ工事を進めて明治14年5月7日に新橋から横浜間の全線の複線化を完了した。
高輪築堤の上を大型の機関車が客車をけん引して走る、ほぼ同じ場所でとられた3枚の写真があるが、この写真では線路は1線増えて、3線並んでいる。この3線化の時期が公式の資料にはないが、当時の朝日新聞を見ると、東海道線横浜以西の複線化と合わせて、新橋・品川間の1線増設の記事が載っている。
日本は、明治27年7月に清国との戦争が始まった。日本軍の兵站基地は広島の宇品に置かれ、これに合わせて山陽鉄道が広島まで延伸開業するほか、各地で鉄道が整備された。翌年の4月には日本の勝利で終えるが、その後清国からの巨額の賠償金の獲得と、中国の広大な市場を手中に収めて日本の産業化を大きく前進させた。その結果、鉄道網の要に位置する新橋~品川間の輸送力増強が必要となり、明治29年複線に1線を増設する工事が始められたという。数年で完成したようであるが、完成時期は不明である。写真を見ると、築堤と陸地の間は、この時点で埋め立てられて地続きとなっていた。陸側の擁壁が現存しないのは、この時に撤去されたのであろう。
明治31年には、当時の横浜駅は現在の桜木町の位置にあり、大阪方面にはいったんスイッチバックしなければならなかった。この迂回により所要時間が伸びるばかりでなく、機関車を付け替えねばならず、大きな手間となっていた。日清戦争中に、神奈川から程ヶ谷まで軍用鉄道として短絡線が完成していたことから、これを譲り受け、西へ向かう列車のうち横浜に停車しないものを、短絡線経由とした。その後、横浜駅はこの軍用短絡線上に移設された。
電車の運行開始
明治37年にまだ私鉄だった甲武鉄道が、高速鉄道では初めて電車の運転を開始した。東海道線での電車の運行は、山手線の電車から始まった。明治42年12月16日に、汐留にあった新橋駅の隣に高架の烏森駅が開業し、品川、渋谷、新宿、池袋と回って上野までの電車の運行が始まった。この時、高輪築堤の区間は線路が1線増設されて複々線となった(新橋~浜松町間は翌年6月に複々線化)。そのうちの2線が電車専用であった。もとの高輪築堤は3線だけで、残りの1線は東京湾側に建設されたが、明治43年には後に操車場が建設される広大な用地の埋め立て工事がはじめられた。つまり線路の増設分は、昔の築堤の海側に新しく擁壁が作られて埋立地に建設されたのである。この時点では、新設した擁壁と古い築堤の擁壁の間は水路となっていた。
大正3年12月に東京駅が開業したが、このとき東京~新橋間は複々線化して山手線の電車専用線とは別に東海道の客車線が整備された。新橋から品川までは明治43年より複々線で電車専用線があった。新たに品川~横浜間に電車線を新設して、東京~横浜間の電車の運行を開始した。開業当日は、線路の付き固めが不十分で、電車の走行で路盤が沈み運行不可能となり、修正のために運休となった。後の京浜電車、現在の京浜東北線である。当時はまだ横浜は東京の郊外で、中距離列車の代わりに、電車にも2等車が連結された。京浜電車は、東京~品川間は山手線と同じ線路を使った。
京浜電車は、田町駅(明治42年開設)で山手線の線路から分かれて、品川まで専用の複線を走った。この時点で、高輪築堤の区間は3複線(6線)となっていた(国鉄百年史による)。また途中に伊皿子信号所が設置されたが、これは列車の運行頻度が増加したために信号機を増設したということなのであろう。当時は、駅以外に信号機をつける場合、信号操作のために要員を配置する必要があった。
さらに、埋め立てが進んで、大正10年に貨物操車場が開設された。汐留からの貨物列車だけでなく、山手貨物線を通じて東北地方からの貨物列車が到着し、貨車を行き先別に仕分けした。昭和に入ると品川から鶴見まで新しい貨物線が開業し、途中に新鶴見操車場が設置されて、品川の操車場は客車の操車場に変わった。昭和5年に横須賀線が電車に置き換わった際に、田町電車庫が設置され、横須賀線の電車と運転士が配置された。
戦後、昭和31年に山手線と京浜東北線の分離が行われたが、田町~品川間はもともと別線で運行していたので、線路の数は変わりがない。ただ、内側の山手線と外側の京浜東北線を、山手線の複線と京浜東北線の複線に切り替えるために、田町駅近くに立体交差を新設した。
高輪築堤の保存
JR東日本は、港区教育委員会などと連携して、令和2年7月「高輪築堤調査・保存等検討委員会」を設置して築堤と水路、信号跡の保存について議論を続けた。検討委員会では、築堤の文化財的価値の評価として次のような認識を示した。
・日本の近代的土木遺産を象徴する遺跡として、重要な位置を占めている。
・橋梁部(3街区)は、明治時代に錦絵に描かれた投資の風景をそのまま残しており、西洋と日本の技術を融合して作られたものと捉えることができる。
・信号機土台部分(4街区)を含む前後の築堤は、鉄道らしい景観を呈している。
最終的に、3街区は、水路を含む築堤約80mを現地保存。2街区は、公園隣接部約の状況の良好な部分40mについて、文化創造施設と一体的に公開する。4街区については、信号跡を含む約30m JR高輪ゲートウェイ駅前の広場に移築することとなった。保存のために300~400億円をかけて設計を変更し、3街区の建物位置を東側に移動させるという。