恵比寿駅は東京渋谷区にある山手線の駅だ。ここには山手線のほかに、湘南新宿ラインや埼京線が発着するほか、地下には東京メトロ日比谷線の駅もある。JR東日本の2017年度統計で見ると、恵比寿駅の1日平均乗車人員は、定期6万9,178人、定期外7万6,141人で、合計14万5,319人。山手線29駅のなかでは14位、JR東日本全体では蒲田駅に次いで21位に入っている。合計乗車数でみると蒲田駅や吉祥寺駅とほぼ同じクラスとなる。
この乗車数は近年も順調に伸びているが、この20年間では1994(平成6)年度および1996(平成8)年度が前年比10%以上という大きな成長を見せている。実は1994年10月に「恵比寿ガーデンプレイス」がオープン、1996年3月には恵比寿駅に埼京線発着開始と同駅を取り巻く環境が大きく変わっているのだ。
恵比寿駅は、JR東日本の在来線で初めてホームドアを設置した駅である。ホームドアは、今や説明するまでもないが、ホームに柵を設置、電車に乗り降りするときだけホームのドアを開くという設備だ。ふだんはドアが閉まっているため、歩行中に電車に接触あるいはホームから転落するなどといった事故を未然に防ぐことができるのである。
日本では新幹線やAGT(新交通システム)から導入が始まったが、2006(平成18)年の「バリアフリー新法」(高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律)施行後、鉄道各社での導入が急速化した。一方、電車のドアとホームのドア位置を揃えるためには技術的な課題も多く、鉄道各社や設備メーカーでは試行錯誤しながら導入を進め、現在もなおさまざまな方式が開発されている状況だ。
JR東日本では、まずは利用客の多い山手線などからホームドア設置計画を掲げ、恵比寿および目黒の両駅に先行導入、検証を始めている。ちなみに恵比寿駅では2010(平成22)年6月26日から、目黒駅では同年8月28日から試用を始めている。
この時代、山手線は今と同じく11両編成で運転されていたが、そのうちの7・10号車には6扉車が組み込まれていた。これは利用者の多い山手線で乗降時間短縮をはかる工夫だったが、これがホームドア設置には障害にもなった。そのため、この時点では7・10号車位置はホームドアなしとした状態で試験的な運用を開始している。この恵比寿駅などのテストは予想通りの成果を挙げ、以後、山手線各駅や京浜東北線などにも設置が進められることになったのだ。
ちなみに6扉車の存在はホームドア導入にとっては障害になることから、ホームドア導入に先駆けて一般的な4扉車に組み替えられていった。その結果、山手線では2011(平成23)年9月までに全編成全車両の4扉化が完了している。
こうして車両側の体制が整えられたことにより、恵比寿駅では2011年10月29日から7・10号車部分にもホームドアが設置され、JR東日本ホームのホームドアモデル駅(目黒駅も同時に竣工)となった。その後、この知見を活かして各駅にホームドア設置が広がっていった。
貨物専用駅として開業
駅ホームの発車ベルは、単なるベル音ではなく、メロディを使っているところも多い。恵比寿駅の発車メロディは、クラシック映画ファンにはお馴染みのイギリス映画『第三の男』のテーマ曲をアレンジしたものだ。劇中の音楽はオーストリア人の音楽家アントン・カラスが民俗楽器「ツィター」で演奏していたが、発車メロディではその軽快なメロディがうまくアレンジされている。
なぜ恵比寿駅に『第三の男』なのかというと、この曲が1990年代後半から「エビスビール」のコマーシャルに使われたのが縁だった。恵比寿駅とエビスビール、「えびす」という名前だけのつながりと思いきや、そこには深い歴史があるのだ。
山手線のルーツとなる品川~赤羽間の鉄道(日本鉄道赤羽線)が開通したのは、1885(明治18)年3月1日のことだった。ただし、当時の途中駅は、目黒、渋谷、新宿、板橋だけで、恵比寿駅はなかった。
その2年後、現在のサッポロビールの前身となる日本麦酒醸造会社が創立した。翌年には醸造所も完成、1890(明治23)年に製品第一号となる「恵比寿ビール」の発売を開始した。ブランド名となった「恵比寿」は、七福神の一人で、漁業や福の神として知られている「えびす」にちなむもの。表記は夷、戎、胡、蛭子、蝦夷、恵比須、恵比寿、恵美須などいくつもあるが、ビールのブランド名は「恵比寿」(戦後、「エビス」に改称)の文字を使用した。
売れ行きは順調に伸び、1895年には新たな土地も取得して工場を拡大する。その場所は、恵比寿駅の南東、現在「恵比寿ガーデンプレイス」となっている場所だ。当初、製品は馬車などで運ばれていたが、生産量が増えてきたところで鉄道利用に輸送力を拡大することになった。同社は日本鉄道と交渉、この地にビール輸送用の貨物駅を設置させることに成功した。かくして、1901(明治34)年2月25日、貨物専用の駅が開業したのである。
地名の由来もビールのエビス
当初、貨物扱いしかしていなかったが、やがて旅客の需要も見込める状況になり、1906(明治39)年10月30日、旅客営業も開始した。駅名は製品のブランド名に合わせて「恵比寿」となった。国鉄の資料ではこの旅客営業開始日を恵比寿駅開業日としており、JR東日本もこれを踏襲している。
日本麦酒醸造会社の醸造所がつくられた場所は、明治時代は下渋谷と呼ばれていた場所で、恵比寿という地名はなかった。実は地名もこのビールのブランド名から生まれたのだ。
まず、1928(昭和3)年に工場のそばに「恵比寿通一丁目」「恵比寿通二丁目」という地名が誕生した。そして1966(昭和41)年には住居表示の改正が実施され、恵比寿通一丁目・二丁目をはじめ、山下町・新橋町・豊沢町・伊達町・景丘町が恵比寿一丁目~四丁目となり、以後、恵比寿という地名が広く知られるようになったのだ。
恵比寿駅西口から徒歩2~3分には「恵比寿神社」がある。これは地名を名のった氏神様というわけではなく、えびす神社の総本社として知られる兵庫県の西宮神社から分霊を受け、1959(昭和34)年に建立されたものだ。つまりこれもエビスビールにあやかって招いたと言われている。
ちなみに恵比寿駅西口に待ち合わせスポットとして定番の「えびす像」があるが、これは1975(昭和50)年に地元の有志によって建立されたもの。この像には、恵比寿ビールに始まる恵比寿の地名、恵比寿神社など、この地に刻まれた歴史への思いが込められているのだ。
なお、「恵比寿ビール」を開発した日本麦酒醸造は、1906(明治39)年に大日本麦酒、1943(昭和18)年に日本麦酒、1964(昭和39)年にサッポロビールと体制や社名を変更しているが、恵比寿工場の操業は近年まで続けられてきた。そして1988(昭和63)年、さらなる工場拡大のため、千葉県に移転することになった。これにより工場跡地は再開発され、1994(平成6)年「恵比寿ガーデンプレイス」となっているが、その一角にはこうした歴史やビールの製造などを紹介する「恵比寿麦酒記念館」がある。
また、移転直前の1985(昭和60)年には貨物駅の一部に客車を留置、車内でエビスビールが飲める「ビヤステーション恵比寿」として営業したこともある。汽車旅気分のビアホールとして、多くの利用者に愛された。これは恵比寿ガーデンプレイスで継続しているが、再開発の際、残念ながら客車などの設備は解体され、当時の面影はない。
ちなみに恵比寿の貨物駅が使われていた時代、ビールを運ぶ貨物列車は山手線と並行する通称「山手貨物線」で運転されていた。山手貨物線とは、明治末期、山手線の電車運転が始まり、列車本数も増えていくなか、線路を複々線化、電車の走る旅客線と貨物線を分離して大正時代につくられた路線だ。
埼京線も湘南新宿ラインも発着
JRグループへの移行前の国鉄では、拡大していく首都圏の旅客需要に応じるため、大規模な改革をこうじている。そのひとつは山手貨物線の旅客利用だった。
まず、山手貨物線に代わるルートとして武蔵野線を計画・建設、山手貨物線の貨物線としての負担を減らしていった。その上で旅客線として活用を進めていったのである。恵比寿貨物駅から貨物輸送が終わるのもこんな時代のことだった。
山手貨物線は、1985(昭和60)年に赤羽~大宮間で運転を開始していた埼京線の延伸路線として活用されることになった。ただし、貨物線だったため、途中駅に旅客用ホームはない。その設置を進めながら1986(昭和61)年には新宿発着となり、さらに1996(平成8)年3月16日からは埼京線が恵比寿駅まで延伸してきた。ただし、それ以南の設備はまだ整備途上だったため、しばらくは恵比寿駅が埼京線の始発駅として運転されている。
埼京線の発着が始まった翌年10月、JR東日本グループの「アトレ恵比寿店」が駅ビル内にオープンしている。そして、2001(平成13)年12月1日には湘南新宿ラインの運転が始まり、この時から恵比寿駅にも湘南新宿ラインの電車が発着するようになった。さらに翌年12月1日には埼京線が大崎駅まで延長された。
こうして貨物駅から始まった恵比寿駅は、利便性を高めることで魅力的な街の玄関口として発展してきたのだ。
(文=松本典久/鉄道ジャーナリスト)