“映える写真”至上主義=自己愛過剰消費へのシフト…「平成」消費読み解き総括
いつもはライターの武松氏に対話形式などでまとめてもらっている本連載であるが、平成の終わりに際し、この時代の消費の概略を私的に読み解いてみたい。いつもより硬い文章表現になることをご容赦いただきたい。
時代が共有する価値観の変化
かつての日本では、「西洋は罪の文化、日本は恥の文化」と称していた。これは、江戸時代以来の武家社会での家や藩などの対面重視の社会観が影響して形成されていった価値観であると考えられている。こうした他者や社会に対して恥ずべき行為をしてはならないという自制心が、昭和から平成の前半あたりまでは社会に共有されていたと考えられる。
しかしながら、平成の30年を通して恥の文化は徐々に衰退していった。そして、たとえ公的な場所(例:電車の車内など)でも、匿名性の中で自分の気持ちが自身の世界の中に没入できてしまえば、そこでは他者の存在を無視できるという感覚が多くの世代に浸透していった。その結果、端的には人前での食事、化粧、スマホ歩きなど、自分の世界に入り込んでなされる行為を是認する価値観が世代を超えて拡大していったと思われる。
欧米やイスラムの国々では宗教的な影響などにより、文化面や生活面での振る舞いに対する自制心が働く側面が、希薄なようであっても残されているように個人的には感じている。しかしながら、日本では西欧の罪の文化が浸透せず、独自の恥の文化も衰退に向かったために、社会が共有する価値観は「不干渉と傍観」、「匿名性のなかでの攻撃」といった、自己のことは棚に上げてしまったうえで、潜伏的な監視と他者攻撃型のマインドへと大勢でシフトしてしまったのかもしれない。
仮想的有能感と不寛容社会
経済情勢や社会不安など複合的な要因が絡んでいるため、一概に前述の分析が万事を表しているとはいいがたいが、こうした社会で共有される価値観の浸透によって現出してきたと推測される事態は少なくない。例えば、攻撃的な言動として表出しているものを挙げるのであれば、ネットでの誹謗・中傷、煽り運転、青山の児童相談所の反対運動などは前述の価値観から生ずる「自己にとって不快なものは社会悪」であるという思い込みから拡大しているように感じられる。
この現象は、中部大学人文学部心理学科特任教授の速水敏彦氏が提唱した「仮想的有能感」という用語で説明できる。仮想的有能感とは「他者の能力を低く見ることで自己評価を吊り上げ、一時的で無意識的な自尊感情を高める習慣的な感覚」と説明される。ネットの世界や車内などの閉鎖的な空間で、自分は有能であり他者は格下であると思いこむ意識が自制心に勝ってしまい、極端な発言や行動にまでおよんでしまう事件が近年増加傾向にある原因を、こうした切り口からも説明できるのではないであろうか。
これらは、詰まるところ自己愛が過剰なまでに肥大化した結果ではないかと推測される。自己の快適な環境を死守することは正義であり、他者の微細な不品行には常に敏感に目を見張らせるといった「他人に厳しく、自分に甘く」という価値観が浸透した結果の発露のようにも感じられる。