「現象の裏にある本質を描く」をモットーに、「企業経営」「ビジネス現場とヒト」をテーマにした企画や著作も多数あるジャーナリスト・経営コンサルタントの高井尚之氏が、経営側だけでなく、商品の製作現場レベルの視点を織り交ぜて人気商品の裏側を解説する。
長引くコロナ禍で一進一退の状況が続くが、国内の観光地は人流も戻りつつある。東京都内にも多くの名所があるが、下町の2大観光地といえば「上野」と「浅草」だ。
いずれも現在は台東区だが、昭和22年の合併前は上野が下谷区(したやく)、浅草が浅草区だったこともあり、街の性格は異なる。今回は、そのなかで「上野とアメ横」に焦点を当てたい。
コロナ禍では、観光地としての上野(地区)、商店街のアメ横は、ともに大打撃を受けた。最近はどんな状況なのだろう。
取材に応じてくれたのは、「上野観光連盟」の代表理事・理事長の二木(ふたつぎ)忠男氏(二木商会代表取締役社長)だ。上野は同連盟が地区全体を統括し、アメ横など各商店街が傘下に連なる。同氏はアメ横問屋街連合会の元会長、現在は常任顧問を務める。
コロナ禍とどのように向き合い、現在、どう運営しているのだろうか。
上野は「パンダで元気になる街」
今回はJR上野駅からではなく、地下鉄銀座線・上野広小路駅から現地入りした。同駅に直結するのが「松坂屋上野店」だ。取材時の同店1階にはパンダのディスプレーがあり、女性を中心に来店客が次々に足を止めて見ていた。
「上野は“パンダで元気になる街”なのです。現在は双子のジャイアントパンダ『シャオシャオ』(オス)と『レイレイ』(メス、ともに1歳)が人気ですが、そのお姉さんの『シャンシャン』(5歳)が12月末に中国に返還予定です。今後、上野動物園や上野観光連盟でも、さまざまなイベントを企画しており、イベントを柱にお客さまに訴求していきます」
二木氏はこう話し、2021年6月23日の「双子パンダ誕生」という慶事が、コロナ禍で動物園への入園制限を受けたことを残念がる。その思いには歴史的な裏付けもあるのだ。
今から50年前、1972年の日中国交正常化を記念して中国から上野動物園に来たのが、「カンカン」(オス)と「ランラン」(メス)だった。一躍“パンダブーム”が巻き起こり、74年の同動物園の来園客数は空前の「764万7440人」にも達した。
また、しばらくパンダ不在期間が続いた後、2011年2月21日に来園した「リーリー」(オス)と「シンシン」(メス)も起爆剤となった。2010年度の来園客数は「267万7372人」だったが、2011年度は「470万7261人」と、1年で200万人以上も伸びた。
来園客が周辺の商店街や飲食店にも足を運ぶため、パンダは上野最大のスターなのだ。
消費者が「遠出して買い物」をしなくなった
正月用の食材を求める買い物客が、年末の風物詩でもある「アメ横商店街」はどうだろう。
「アメ横にもお客さんが戻ってきていますが、まだまだ厳しい。コロナはアメ横の伝統的な商いを直撃しました」(二木氏)
どういう意味か。
「外出制限が続き、近所のスーパーや商店街で食品や日用品を買うのに慣れてしまったのです。電車でアメ横に来て『大量に安く買う』ことが減りました。またネット通販も伸び、『現場で商品を見て買う』から、EC購入に流れているのです」(同)
同商店街はJR上野駅と御徒町駅を結ぶ線路沿いを中心に店が立ち並び、コロナ前は普段の平日でも多くの人で賑わった。
もともと太平洋戦争の空襲で焦土と化した上野に、戦後にできた闇市が始まりだ。当時の面影も残り、インバウンド(訪日外国人客)には「生活感がある商店街」として人気だった。
「コロナ前は、特に中国人観光客の爆買いが大きかったですね。現在は欧州の観光客が来ていますが、(取材時は)まだ入国制限もあり、以前に比べて来訪者数は少ないです」(同)
最大の書き入れ時になるはずだった2020年の年末は、「人出の少ないアメ横」としてニュースになったが、2021年年末は回復した。それでも、コロナ以前の人出には遠く及ばない。
名前の由来は「アメリカ横丁」と「アメ屋横丁」
「アメ横」の看板は、JR上野駅側にも同御徒町駅側にもあるが、商店街の性格は異なる。最近はかなり混沌としてきたが、かつては衣料品店と食料品店がゾーンで分かれていた。
「アメ横の由来は、戦後に駐留した米軍の横流し品である衣類などを扱うようになった『アメリカ横丁』と、戦火で焼け出され甘いものを欲していた庶民に芋飴などを売った『アメ屋横丁』の両方に由来しています」(同)
戦後の闇市から始まったアメ横は、商店街の性質を徐々に変えてきた。かつては食料品店が大半で「店舗数も現在より多い500店ほどあるなか、約300店が食料品店でした」。
二木氏が社長を務める二木(にき)商会は、戦後のアメ横発展に寄与してきた「二木の菓子」「二木ゴルフ」の系列で、アメ横を起点に喫茶店やパン屋などを運営する。
一方、戦後すぐに米軍の放出品を売り始めた歴史を受け継ぎ、この商店街からブームが始まった衣料品も多い。その代表が「MA-1」と呼ばれる米軍のフライトジャケットだ。ミリタリーショップとして有名な中田商店が売り出し、1980年代に人気に火がついた。同時代にウエスタンブーツが流行った時期は、当時の若者はアメ横に買いに来た。
だが、近年は簡易食堂も多い。外国人の経営も増え、東南アジアの雰囲気を持つ一角もある。昔のアメ横を知る人は違和感を覚えるかもしれないが、これも時代の変化だ。
コロナ禍で閉業した店も増えた
「店舗数も500店ほどあった」と前述したが、近年は400店を割り、コロナ禍でさらに減った。閉店が特に目立つのは、高架下のビル内にある店だ。
「閉店した理由はいくつかあります。まずコロナ前から、店によっては後継者不足が言われてきました。親は商売を続けてきたけれど、子ども世代は違う仕事をしている。どこの商店街にもある話が、アメ横でも起きているのです。
さらに、コロナ禍で資金繰りが悪化した例も増えました。商店街を訪れるお客さんが減り、売り上げが落ち込む。家賃負担もあり、経営が厳しくなったのです」
前述した簡易食堂が増えたのも、経営権を譲渡して経営者が変わったからだ。また、以前は個人店や地場チェーン店が多かったアメ横にも、大手チェーン店が目立つようになった。
「駅」と「山」と「街」を回遊してほしい
メディアに取り上げられる機会が多い、アメ横の現状を紹介したが、アメ横商店街という「線」ではなく、地区全体という「面」で関わるのが上野地区の特徴だ。
二木氏はよく、「駅と山と街の連携」といった言い方をする。ここで言う「駅」とは、上野地区にあるJR(上野・御徒町駅)や地下鉄(上野・上野広小路・上野御徒町駅など)、そして私鉄の駅(京成上野駅)を指す。「山」とは上野の山(上野公園)で、「街」は上野の商業地区を指している。
例えば、JR上野駅の公園口に降り立った人は、上野動物園や博物館、美術館がある山(文化ゾーン)を訪れる。ここまで文化施設が連なるのは世界的にも少ないという。
その人たちが足を伸ばしてアメ横などの商店街(商業ゾーン)に来てほしい。買い物も駅ナカで済ませずに、地域を楽しんでほしい――との思いもある。
これまで御徒町側で「カフェニキ」を運営してきた二木商会も2021年9月、上野駅側ガード下に「ニキベーカリー&カフェ」という店をオープンさせた。店内ではサンドイッチや焼き立てパンのほか、パンダパンも販売されていた。
大資本ではなく、地元の商店主が主導する
「上野」や「アメ横」は、街づくりを巨大資本ではなく、地元の商店主が主導して担うのが特徴。例えば、東急(東京急行)電鉄が再開発する「渋谷」や、西武鉄道や東武鉄道の「池袋」と比較すると、違いは明らかだ。
かつて東北地方の企業経営者(創業者)が語った、こんな話が印象に残っている。
「よく地域振興というと、大企業の資本を入れたがります。工場誘致は典型ですね。でも、その企業の業績が悪化すると工場も閉鎖されて、地元にお金が落ちることもなくなります。そこで働く人の雇用も失われてしまう。結局は地元企業が頑張るしかないのです」
その後に相次いで起きた工場閉鎖(企業側は「生産拠点の再編」という言い方を好むが)のニュースを聞くたびに、この言葉を思い出した。
東日本大震災後に東北地方からの来場客が激減するなど、これまでも試練を受けてきた上野とアメ横だが、コロナ禍は戦後最大の試練だと聞く。パンダ関連以外にも、桜の時期に上野公園で行う「うえの桜まつり」などの大規模イベントが開催中止に追い込まれ、集客機会を逃したからだ。
だが、今こそ先人に学ぶ時かもしれない。上野は戊辰戦争で戦場となり、アメ横の場所は東京大空襲で焦土と化した。そこから立ち上がり奮闘し、現在があるのだ。
(文=高井尚之/経済ジャーナリスト・経営コンサルタント)