「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」
これは真言宗、天台宗、禅宗などで読まれる「般若心経」の最後の部分です。般若心経は仏教の全経典のなかでもとても短く、禅寺での写経体験で書き写されたことがある方も多いと思います。
般若心経は、唐代の中国の訳経僧である玄奘が、苦難の末にインドにたどり着き、中国に持ち帰ったありがたい経典です。その玄奘は西遊記の中で孫悟空や猪八戒を従えた三蔵法師として描かれており、日本でも有名な高僧です。
少し前になりますが、日本で般若心経ブームが起こり、たくさんの解説本が出版されました。2010年には、なんとJ-POP風の伴奏を付けてボーカロイドの初音ミクに読経させた動画「般若心経ポップ」がニコニコ動画に投稿されて、たった2日間で10万回、2週間で60万回も再生されました。また、2019年には椎名林檎さんがアルバム『三毒史』のなかの楽曲『鶏と蛇と豚』で使用するなど、意外な使われ方もされています。
みなさんも、般若心経の有名な一文「色即是空 空即是色」は、どこかで聞いたことがあるでしょう。簡単に言うと、煩悩を捨てることを説いており、“色=形を持つもの”は、これすなわち“空=実体がない”であり、かつ“空”とは“色”でもあるという、禅問答のような内容です。それでも日本人ならば、漢字を見ているとパズルを解くように意味がわかってくることが、今もなお、書店にたくさんの般若心経関連の書籍が並んでいる理由なのだと思います。
ところが、最後の部分にある「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」だけは、いくら漢字を見ても意味がわかりません。なぜかというと玄奘はこの部分だけは、釈迦の時代のインドの古い言葉であるサンスクリット語の響きを漢字に当て字したからで、漢字自体には意味がありません。
サンスクリット語で「ギャーテイ・ギャーテイ・ハラギャーテイ・ハラソウギャーテイ・ボージソワカ」と読みます。これは仏教にとって大事なマントラ(真言)だそうで、釈迦が話したサンスクリット語で読まないと言葉のパワーがなくなってしまうと信じられており、玄奘も中国語に訳しませんでした。仏教の世界では、サンスクリット語が神聖な言葉とされているのです。
ちなみに、訳には諸説ありますが、「往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ」といった意味のようです。
ヨーロッパの“神の声”
ところで、ヨーロッパにも似たような言語があります。それはラテン語です。ラテン語は古代ローマ帝国で使用されていた言葉で、キリスト教がローマから広まっていくのと同時に、教会の公用語となり、今もなお、ローマ教皇がいるバチカン市国の公用語となっています。
しかも、以前は知識階級の言葉であり、現在でも医学や数学、科学、哲学のような専門知識分野では、新発見の学術論文にはラテン語を使用したりするようです。たとえば、「ウイルスの感染状況をデータ化する」という短い文章の中にも、ラテン語が語源の「ウイルス」「データ」が含まれています。
ただし、ラテン語は一般の人々が理解できる言語ではありません。中世のキリスト教会では、聖書はラテン語で書かれていたので、一般市民には読めませんでした。聖職者だけがラテン語を理解できたことから、彼らの言葉がそのまま“神の声”のようになり、教会の権威はどんどん高くなっていきました。すると、「人間には生まれ持った罪があるので、地獄に行きたくなければ、この免罪符を買いなさい」と、信者に免罪符を売りつける聖職者まで出てきたのです。
ちなみに、カトリック教会の壁にあるステンドグラスに聖書の物語が多く描かれていたり、祭壇がキリスト受難等の絵で飾られているのは、当時の人々がラテン語のみならず、そもそも文字を読めない人が多かったからです。
仏教におけるサンスクリット語のように、神の言語として扱われていたラテン語ですが、それに異を唱えたのは、ドイツの神学者マルティン・ルターです。これまでラテン語しかなかった聖書を翻訳し、当時発明されていたグーテンベルクの印刷機を使ってドイツ語の聖書を発行し、当時では破格の10万部の大ベストセラーとなりました。やっと一般市民が、聖書に書かれている内容を自分たちで理解できるようになった大事件で、その後、宗教改革の嵐がヨーロッパを大きく変えていきました。
とはいえ、それからもカトリック教会ではラテン語は使われ続け、音楽の世界にも影響を与えています。たとえば、ドイツ語、イタリア語、フランス語、英語を自由に話せたモーツァルトも、少年時代には楽器演奏や作曲とともにラテン語の勉強も厳しくさせられています。
それには実務的な理由もありました。教会の依頼を受けて作曲するミサ曲やレクイエム(鎮魂曲)の歌詞はラテン語だからです。ラテン語は神聖な言葉として、信者にとっては特別感があるのでしょう。実際には、ミサ曲やレクイエムで使われる経典は決まっているので、大体の意味はわかります。もちろん、指揮者や歌手は意味を理解して演奏していますが、信者にとっては、わからないところがあるからこそ“神の声”としてのありがたさが増す側面もあるのかもしれません。それはなんとなく、仏教のお経に似ているように思います。
実はキリスト教の音楽にも、ラテン語に訳されない、仏教で言うところのマントラのような言葉があります。
それは、日本でもよく知られる「ハレルヤ(神を褒め称えよ)」「アーメン(その通り)」「ホサナ(救いたまえ)」といった言葉で、イエス・キリストが発したヘブライ語です。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンからヴェルディに至るまで、これらのヘブライ語の歌詞には、作曲家は音楽が最高潮に達するように作曲しています。
(文=篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師)