起死回生を図ろうと焦った神田氏が94年に立ち上げたのが、調理師不要の新業態「ラーメン館」だった。珍しさ受けを狙った奇策のような業態だった。1店舗内で札幌味噌ラーメン、九州豚骨ラーメンなど全国のご当地ラーメン約10種を480〜600円で販売。麺は太麺、細麺など4種類を用意して使い分け、スープのベースは同じものにして、タレで変化を付けた。日本中のラーメンが味わえるという趣向が受け、行列のできるラーメン店になった。これに味を占めた神田氏はラーメン館の出店を拡大、99年9月には日本証券業協会(現ジャスダック)に店頭公開まで果たした。
ところが、皮肉にも公開直後からラーメン館は不振に陥った。ラーメン館の既存店売上高は00年2月期に前年同期比0.4%減、01年2月期には同3.8%減、02年2月期には同2.3%減と減り続けた。ほかの業態の売上に助けられ、会社全体の売上高は辛うじて維持できたものの、02年2月期には営業利益は11.4%減、03年2月期には18.7%減に落ち込んだ。当時について神田氏は、「不振の原因は、ご当地ラーメンといっても、所詮はまがいものだったからだ。最初は珍しさで客が集まったが、だんだん飽きられ、業績が落ちてしまった」(「日経レストラン」<日経BP社/09年9月号>)と振り返る。
競合相手への認識も甘かった。デフレを反映し、大手ファストフードチェーンはこぞって主力商品を値下げしていた。マクドナルドは00年に130円のハンバーガーを平日65円に、吉野家は01年に牛丼並盛400円を280円に。大手ラーメンチェーンの幸楽苑も390円でラーメンを出していた。それなのに日高屋のラーメン館は一番安くて480円。これでは繁盛するわけがなかった。
●日高屋を生んだ逆転の発想
そんな失敗の中で生まれたのが、同社ビジネスモデルの発端となった「逆転の発想」だった。神田氏は、「ファストフードの一番の強みは安さ。したがってラーメンの値段がファストフード並になれば、ファストフードの客が来来軒に流れ込んでくる。そう思った」(10年7月23日付「現代ビジネス」記事)と神田は言う。
問題は、家賃の高い駅前繁華街出店で、下げられないラーメンの値段をいかにして下げるかだった。この問題を解決したのが、02年から出店を始めた現在の日高屋だった。ラーメンを主体にしつつ、ビールを加え、そのつまみとなる餃子、炒め物などの簡単な料理で構成したメニューの中華料理業態が同社を建て直した。
02年、東京・新宿に日高屋1号店を開店。餃子をつまみにビールを飲み、ラーメンで締めて1000円以下という価格設定が受け、店は大いにはやった。神田はラーメン館と他の業態約30店を一気に業態転換し、これらを含めて1年で日高屋を約50店出店した。日高屋への業態転換が終了した04年には、営業利益の伸び率は前年同期比64.8%、売上高も102億円となり、初の100億円超えを達成。その後も業績が順調に伸び、05年には東証第二部に、06年には一部に上場を果たした。09年2月期には過去最高の38店を出店、売上高は200億円を超えた。
「昭和の時代は、駅前にまだラーメンやおでんの屋台があって、勤め帰りのサラリーマンでいつも満員だった。それが平成の時代に入ると、衛生問題で屋台が営業できなくなった。自然とうちがその代わりを果たすようになった。これは追い風になった(前出の「日経レストラン」記事)」と神田は回想する。
●異色の出店戦略
日高屋好調の要因としてよく挙げられるのが、アルコール売上依存度の高さだ。その比率は15%。ラーメン店としても中華料理店としても異例の高さに上る。
同社は駅前繁華街に出店しているので家賃が高い。坪単価は平均5万円で、40坪が平均的な広さ。したがって毎月200万円の家賃が固定費としてのしかかるため、ラーメンと簡単な中華料理だけの商売では家賃と人件費をカバーできない。だが「粗利の高いアルコール類が、家賃と人件費を吸収してくれる」(同社関係者)というわけだ。
もう1つ、日高屋の業態は簡単なようで真似をするのが意外に難しい。
まず居酒屋は、そもそも「勤め帰りにチョイ飲み」したい客層向けの業態ではない。アルコール類がビールとハイボールなどだけではとても客の満足を得られないし、つまみも最低20種類くらいの品揃えは不可欠だ。だからパート店員だけでは賄えず、調理師が必要になる。したがって値段を安くできない。一方、値段の安いファストフードは食べ物主体の業態なので、アルコールを置いてもほとんど売れない。