10兆円市場、世界で「肥満薬競争」が激化…乗り遅れた日本、普及への課題は?

●この記事のポイント
・肥満薬市場が世界で急拡大し、イーライ・リリーやノボなど主要製薬各社が10兆円規模の市場争奪戦を展開。経口薬の登場で市場は18兆円規模に成長する可能性が高まっている。
・米国ではゼップバウンド承認後、国民の10人に1人が肥満薬を使用するまで普及。肥満率低下や医療費削減効果も期待され、肥満薬は「社会的インフラ」として位置づけが変わりつつある。
・一方、日本では価格・制度・供給面の壁で普及が遅れている。今後の普及には保険適用の見直しや国内供給強化が不可欠で、生活習慣病増加を踏まえた包括的な治療モデル構築が求められる。
2023年、米イーライ・リリーの肥満治療薬「ゼップバウンド」がFDA(食品医薬品局)で承認されたことをきっかけに、米国の医療現場と産業界は大きく揺れ始めた。GLP-1受容体作動薬と呼ばれる一連の新型肥満薬の市場は瞬く間に広がり、わずか1年余りで「国民10人に1人が服用する」巨大市場へと成長した。
背景には、米国特有の肥満率の高さがある。だが、今回の市場拡大は単なる「健康需要」では説明しきれない。製薬業界に詳しい医療アナリスト・三好泰一氏はこう読み解く。
「肥満率の低下という“社会的リターン”と、将来の生活習慣病医療費の削減という“経済的リターン”の両方が期待できる点が、今回の薬剤普及の原動力になっています。米国は医療保険制度上、肥満が糖尿病・心疾患リスクの入り口であるという共通認識があります。そのためGLP-1薬は“予防医薬”としての意義を帯びたのです」
事実、ゼップバウンドの普及後、米国では複数の州で肥満率低下の兆候が確認されている。同薬を手掛けるイーライ・リリーの時価総額は、製薬業界では異例の1兆ドル(約150兆円)に到達し、いまや米国株式市場の主要銘柄に名を連ねる。
かくして肥満薬は「医薬品ビジネスの中心」となり、世界の製薬企業を巻き込む熾烈な開発競争が勃発した。
●目次
- ノボ、ファイザー、アストラゼネカ…世界中のメガファーマが参戦
- 次の主戦場は「経口薬」…注射薬の壁を越えられるか
- 日本だけ普及が遅れている理由…制度・文化・価格の三重苦
- 日本で普及する可能性も
- 世界は“健康インフラ化”へ
- 日本における課題と処方箋
- 肥満薬は「世界の医療を変える産業」へ
ノボ、ファイザー、アストラゼネカ…世界中のメガファーマが参戦
イーライ・リリーの快進撃を受け、世界の製薬企業は続々と肥満薬開発へ舵を切っている。
ノボノルディスク(デンマーク):2025年、経口GLP-1薬をFDAに承認申請
ファイザー(米):複数のGLP-1関連経口薬を治験中
アストラゼネカ(英):既存薬のデータを活かした新規パイプラインを加速
ロシュ(スイス):他社買収を含む肥満領域強化を宣言
この動きを製薬業界にも精通する経済コンサルタントの杉原隆二氏は「医薬産業の構造転換」と表現する。
「肥満薬はこれまで“生活習慣病の周辺領域”とみられてきたが、いまや循環器・代謝領域の中心を形成し始めています。しかも、複数の金融機関が、市場規模は10兆円規模に到達したと見積もっており、世界的な予測としては2030年に15兆円規模にまで拡大、経口薬の普及次第では18~23兆円市場に成長する可能性がある。製薬各社にとって、参入しない理由が見当たらない領域です」
かつて製薬業界には「ブロックバスター(売上1000億円を超える医薬品)」という概念があったが、GLP-1薬はその常識を超える“メガバスター”の象徴となりつつある。
次の主戦場は「経口薬」…注射薬の壁を越えられるか
GLP-1薬の普及を阻む最大の障壁は、その投与方法が皮下注射であることだ。医療現場では週1回の注射で効果が期待できるものの、国内外で「心理的ハードルが高い」との指摘が多い。
ここに照準を合わせ、各社が開発競争の矛先を向けているのが経口GLP-1薬だ。イーライ・リリーはすでに複数の経口薬の治験を進行中で、米国ほか主要市場で承認申請へ動いている。ノボノルディスクも今年、FDAに承認申請を行った。
経口薬への進化は市場構造を一気に変える。経口タイプは投与が容易、医療機関受診の頻度が低下、ポピュレーション全体への適用が広がる、といった利点があり、三好氏はこう評価する。
「経口タイプが主流化すれば、GLP-1薬は糖尿病薬のような“生活医薬品”に近づく。市場規模は現在の10兆円から18兆円規模に膨らむ可能性があります」
まさに「飲むだけで痩せる」という新時代が訪れるのか。ひとつの鍵は、日本を含むアジア市場の動向だ。
日本だけ普及が遅れている理由…制度・文化・価格の三重苦
世界が肥満薬ブームに沸く一方、日本での普及は非常に限定的だ。その背景には3つの構造的な壁がある。
(1)保険適用の壁
日本では肥満単独では保険適用にならず、糖尿病などの合併症が条件となる。“ダイエット目的”での使用は自由診療扱いで、1カ月あたり3〜5万円と高額だ。
(2)「副作用への慎重さ」という文化
日本の医療文化では、体重管理に薬剤を使うことに抵抗感がある。副作用としては嘔気・下痢、まれに膵炎などが指摘され、安全性への慎重姿勢が普及スピードを抑えている。
(3)供給量の制約
ノボノルディスク、イーライ・リリーとも、世界的な需要拡大で供給不足が続いている。各社は増産を進めているが、日本向け供給量は限定的とみられている。
杉原氏は次のように指摘する。
「日本は医療制度が慎重であることに加え、肥満率も米国より低い。製薬企業にとって日本市場の優先度は必然的に下がります。そのため、供給面・価格面で世界から後れを取る可能性が高い」
日本で普及する可能性も
それでも日本市場が“取り残される”とは限らない。普及を後押しする要因は複数存在する。
(1)生活習慣病の急増
40代以降で糖尿病・脂肪肝・高血圧などの生活習慣病が増加しており、肥満治療薬を早期介入として活用するニーズは高まっている。
(2)経口薬の登場
副作用のコントロールが進み投与負担が小さくなれば、日本でも受容性は上がる。
(3)健康経営・ウェルネス市場の拡大
企業が社員の健康管理に積極的に投資し始めており、GLP-1薬を含む「肥満・代謝改善プログラム」を導入する動きも出てくるだろう。
世界は“健康インフラ化”へ
世界の肥満薬市場は、今後10年で姿を大きく変える可能性がある。具体的には次のような方向だ。
(1)投与手法の多様化
注射→経口→経皮パッチなど、投与方法が進化する。
(2)生活習慣病との統合治療
肥満・糖尿病・心血管疾患を同一線上で管理する治療モデルが進む。
(3)予防医療へのシフト
保険制度がGLP-1薬を「肥満予防薬」として認める国が増え、医療費削減の柱として位置づけられる可能性がある。
(4)社会構造の変化
肥満率低下 → 医療費抑制 → 労働生産性向上という経済的好循環が期待される。
三好氏は次のようにまとめる。
「肥満薬は“美容薬”や“流行もの”ではなく、社会の医療インフラそのものを変える可能性があります。医療費・雇用・生活習慣病──そのすべてに影響する巨大なイノベーションです」
日本における課題と処方箋
日本で肥満薬を普及させるには、次の点が鍵を握る。
・保険適用範囲の拡大(生活習慣病予備群まで広げる)
・薬剤費の抑制・国内生産基盤強化
・食生活・運動と組み合わせた“包括的肥満治療モデル”の確立
・副作用管理を含む医療現場の体制整備
特に保険制度の見直しは普及の大前提となる。杉原氏はこう述べる。
「日本の肥満率はまだ米国ほど高くありませんが、生活習慣病の患者数は急増しています。肥満薬は医療費削減のカギになり得る。経口タイプが普及する前に、制度面の議論を急ぐ必要があります」
肥満薬は「世界の医療を変える産業」へ
世界では今、肥満薬が新しい医療・産業の柱として台頭している。皮下注射から経口薬へ進化することで市場は18兆円規模に拡大し、製薬企業の競争はかつてない熱を帯びている。
一方、日本は制度・文化・供給の面で普及が遅れており、このままでは“肥満薬後進国”になりかねない。しかし、生活習慣病の増加やウェルネス産業の成長など、普及の土壌は整いつつある。
肥満薬は単なるダイエット薬ではなく、社会構造を変える医療イノベーションである。世界が巨大な波に乗りつつあるいま、日本はどこで舵を切るのか──。その選択が、未来の医療費、国民健康、産業競争力のすべてを左右するだろう。
(文=BUSINESS JOURNAL編集部)











