仕事が趣味な幸之助氏に対して、正治氏は水泳、ヨット、ゴルフとスポーツ万能である。経営者たるもの寝ても醒めても経営について考えるのが当たり前と考えている幸之助氏にとって、ゴルフ好きの正治氏には我慢ならなかったようだ。「宴会は2時間で済むが、ゴルフは1日かかる。これは、ムダや」と叱責したという。
「経営の神様」と謳われた幸之助氏について、正治氏は「ただのおじさんですよ」言ってはばからなかった。幸之助氏が亡くなるまで、2人が和解することはなかった。
幸之助氏は89年4月、94歳の生涯を閉じた。幸之助氏が亡くなると、松下家の人々は松下正幸氏(現・副会長)を社長に擁立する意思を公然と示すようになった。正幸氏は、正治氏の長男で、幸之助氏の孫。一族の総領となった正治氏を先頭に立て、松下家は正幸氏の社長擁立に挑んだ。
ここでいう松下家とは、幸之助氏の妻のむめさんと、その一人娘で、養子の正治氏を婿に迎えた幸子さんの母娘のことである。松下電器の新任の取締役は、真っ先に松下家に就任の挨拶に出向くのが慣例。上座に居並ぶ松下家の母娘に、取締役たちは「おかげさまで、就任させていただきました」と礼を述べ、祝いの杯を受けるのである。
90年代の松下電器の歴代社長の、決して表に出せない最大の経営課題は、松下家の世襲を、いかにして阻止するかにあった。この暗闘に終止符を打ったのは、松下家の資産管理会社・松下興産の経営危機が表面化したからだ。松下興産は52年に幸之助氏個人の出資で倉庫会社として設立された。その後、マンション分譲などに事業を広げる一方、松下電器や松下電工(現在のパソナソニック電工。パナソニックの完全子会社となっている)の株式を保有する松下家の資産管理会社となった。幸之助氏は83年まで社長を務めた。
幸之助氏が社長を退くと、事業は幸子さんと正治氏の一家が引き継いだ。会長には正治氏、後任社長には正治氏の長女・敦子さんの娘婿、関根恒雄氏が就任した。関根氏は松下興産をデベロッパーに大変身させた。和歌山のリゾート施設、マリーナシティやスキー場など過剰なリゾート投資で、ピーク時には1兆円の有利子負債を抱えた。
松下家のファミリー企業だけに、再建には松下電器の支援が不可欠だった。05年3月、松下電器主導で松下興産は清算され、外資系投資ファンドが支援したMID都市開発がマンションなど優良事業を引き継いだ。MIDは現在、関西電力の連結子会社になっている。
正治氏が、というより幸之助氏の長女、幸子さんが、あれほど執念を燃やした正幸氏の社長就任を断念したのは、松下電器に松下興産を金融支援してもらうための窮余の一策だった。松下興産の“倒産”を回避するために松下家は妥協せざるを得なくなった。これで世襲は封印された。正治氏は名誉会長、正幸氏は副会長の肩書きがついたが、名誉職でしかなかった。