ほしいこと』(PHP研究所)
松下正治氏は、旧平田伯爵家から松下幸之助氏の養子に迎えられた。1961年に松下電器産業(現・パナソニック)の社長、77年に会長、00年から名誉会長を務めた。社長在任中は、幸之助氏が「経営の神様」として君臨した時期と重なり、正治氏の影は薄かった。
幸之助氏は松下家の血の継承と同時に、事業の継承を托した。しかし、不釣り合いな養子縁組だったことを、すぐに思い知る。人生観から商売についての見方・考え方にいたるまで相容れるものはなかった。正治氏を後継者にしていったんは引退するが、その経営手腕に失望し、経営の第一線に復帰する。今なお伝説として語り継がれている「熱海会談」の直後である。
まず「熱海会談」について説明しておこう。64年10月の東京オリンピックの開幕を控え、オリンピック・ブームで沸いた過熱景気を抑えるため、政府は金融引き締めを断行する。景気は一気に冷え込み、家電業界は設備過剰と需要の停滞のダブルパンチで大打撃を受ける。
この年の7月9日から3日間、熱海のニューフジヤホテルで、幸之助氏が主催する「全国販売会社代理店社長懇談会」が開かれた。松下側からは会長の幸之助氏、社長の正治氏ら全役員が出席した。席上、販売会社・代理店社長から「ビジネスのやり方がおかしい。我々のことをまったく考えていない」、「どっちを向いて商売をしているのだ」と、正治氏への批判が容赦なく浴びせられた。幸之助氏が「あなたは苦労したと言われるが、血の小便が出るまで苦労されましたか」と反論したのは、この席である。
結局、「松下電器が悪かった。この一言に尽きます」。ハンカチで目頭を押さえながら、声を絞り出すようにして幸之助会長が詫びた。すると、先ほどまでの喧騒がウソのように会場は静まり返り、幸之助氏に対する激励の会に一変した。
熱海会談の後、ただちに営業本部長代行として陣頭指揮を執った。このときの迅速な対応から、幸之助氏の評価はさらに高まり、「経営の神様」とあがめられるようになる。これは同時に、後継者に指名した正治氏に、自ら社長失格の烙印を押したことを意味する。
これ以後、両者の確執は抜き差しならぬものとなった。
こんな話がある。ある日の役員会で、幸之助氏が名指しこそしなかったものの正治氏と判る表現でボロクソに批判したことがあった。その時のあまりの表現のきつさに堪りかねた役員が、役員会が終わると「あんたらは親子じゃないか。そんなこと役員会の席で言わんと、家の中で親子で話し合ってくれ」と直接、幸之助氏に文句を言ったという。