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高井尚之が読み解く“人気商品”の舞台裏(2月12日)

「命の缶詰」工場、震災直撃から奇跡の復活…驚異の行動力と多角化、何千人の支援

文=高井尚之/経済ジャーナリスト・経営コンサルタント
「命の缶詰」工場、震災直撃から奇跡の復活…驚異の行動力と多角化、何千人の支援の画像1「木の屋石巻水産 HP」より

「現象の裏にある本質を描く」をモットーに、「企業経営」「ビジネス現場とヒト」をテーマにした企画や著作も多数あるジャーナリスト・経営コンサルタントの高井尚之氏が、経営側だけでなく、商品の製作現場レベルの視点を織り交ぜて人気商品の裏側を解説する。

石巻港からクルマで40分の高台にある宮城県美里町に新設した缶詰工場で、2013年3月から生産を始めました。まだ、東日本大震災前に比べて6割程度の売り上げですし、工場再建費用も重なり、経営は大変です。でも震災後は、若い従業員が増えました。それまで働き口を求めて高校卒業後は都会に出ていた若者が、地元に残ってくれるようになりました」

 本社のある石巻市から出張された際、東京都内で話を聞いた木の屋石巻水産・木村長努社長はこう話して笑った。もちろん会心の笑顔ではないが、12年2月に、津波で破壊された石巻市内の本社跡を案内してもらった時の、無念そうな苦笑いとは違っていた。

 木の屋石巻水産は1957年創業の食品加工メーカーだ。父の實氏が創業した会社を、息子たちが後を継ぎ、順調に業績を伸ばした。東日本大震災前年の水揚げ高が全国3位だった石巻港など、地元で水揚げされた海産物を取り扱い、水産加工品として販売してきた。震災前の売上高は約17億5000万円で、昨期はその6割の約11億円となっている。

 特に鯨の大和煮や、地元ブランドの金華さば、さんま、いわしなど、水揚げされたばかりの新鮮な魚介類を「フレッシュパック」と呼ばれる製法で缶詰にした商品の人気が高い。

 同社工場のシンボルだった巨大な鯨缶のタンク(魚油を貯蔵)が、数百メートルも流され道路に横たわる姿は震災後の津波の象徴シーンとなった――と紹介すれば、思い当たる人もいるだろう。その後、タンクは「被災者の中には『タンクを見ると津波を思い出してつらい』という声もあり、当社の費用負担で撤去して解体しました」(木村氏)という。

「命の缶詰」から「希望の缶詰」へ

 そんな同社の魚介類の缶詰は、震災直後にさまざまな役割を担った。時計の針を4年前に戻して、その経緯を紹介しよう。

 11年3月11日。午後2時46分の本震発生後、数十分で到達した大津波により、石巻市では約6万台の自動車が海に引き込まれ、多くの尊い命が犠牲となった。市内は孤立し、その後数日間、被災者は各地の建物で雨露や寒さ、空腹をしのいだ。小学校校舎の屋上に書かれた「SOS」の文字がニュースで繰り返し報道されたが、それも同市だった。

 津波で石巻港近くにあった木の屋石巻水産の缶詰工場も流失したが、流れてきたそれらの缶詰を拾って食べて、当面の空腹を満たした被災者もいたという。缶詰ゆえ、外見は汚れても中身の品質には問題がない。孤立状態が解消されて救援物資の食料が届けられるまで、まさに「命の缶詰」となったのだ。

 その後、ようやく水が引き、同社の従業員が工場のガレキを片づけ始めると、泥水の下に大量の缶詰が埋まっていることに気づいた。

「当時の工場在庫は約100万缶あり、残った缶を掘り出すことから自社の業務を再開しました」と木村氏は振り返るが、石巻ではまだ水道も電気も復旧していなかった。

 そんな中、いち早く取引先が動いた。東京・世田谷区経堂の居酒屋「さばのゆ」が、「泥つきでいいから缶詰を送ってほしい」と手を差し伸べたのだ。やがて石巻から缶詰が届くと、東京のボランティアの人たちが手洗いし、3缶1000円で販売した。

 この活動がテレビなどで報じられると、さらに支援の輪が広がった。北海道から沖縄まで全国の人たちが次々に同社工場を訪れて、ボランティアで缶詰を拾い洗ってくれたのだ。

 さらに紹介を受けて、木の屋石巻水産の従業員が千葉県や鳥取県などの「道の駅」に出向き、訪問客に販売した。包装がはがれた状態の裸缶でも、多くの人が購入してくれた。いつしか「希望の缶詰」と呼ばれた商品は25万缶が完売したという。

冷蔵工場と缶詰工場を別々に建て、自社生産を再開

 筆者は震災11カ月後に現地取材したが、その際、まだ空き缶やガレキが残った本社工場前で木村氏は次のように語った。

「本当に何もなくなってしまって……。でも年配者は言うのですよ。『昔の海に戻った』と。昔は海岸近くに何もありませんでしたから」

 そう言い聞かせるように語っていたが、すでに同社は次々に手を打っていた。まずは震災翌月の4月に、「さばのゆ」の協力で世田谷区下北沢に「木の屋カフェ」を開店した。缶詰を使った料理も楽しめるカフェだ。石巻本社の活動が本格化したため同年内で店を閉じたが、店を切り盛りした従業員は新たな接客サービスも学んだという。

 木村氏の実弟で副社長の隆之氏は、関係者に働きかけて一般社団法人三陸海産再生プロジェクトを設立し、代表理事に就任。被災した漁業関係者を支援するとともに、漁業の未来を自分たちで切り拓く活動を始めた。法人会員・個人会員を設定し、一般からの寄付も募った。集まった資金は漁業再生の船舶・機械や設備購入などに活用され、会員や寄付者には三陸の海で獲れた海産物が宅配されている。仮設直営店で営業している時でも従業員は前向きで、入り口には「一生懸命に営業中」とのプレートを掲げていた。

 現在の同社はリスク回避のため、「冷蔵工場」と「缶詰工場」に分けて製造する。冷蔵工場は流失した元の工場と同じ場所である石巻市魚町1丁目に再建、缶詰工場は内陸部にある美里町に分散建設した。隆之氏はプロジェクトの代表理事を退任し、自社工場の生産業務に注力している。

 だが、2工場の建設に同社は約44億円を投資した。投資額のうち、冷蔵工場は国の「中小企業等グループ施設等復旧整備補助事業」によって4分の3、缶詰工場は復興庁の補助金によって8分の7がそれぞれ助成されたが、残りは自己負担したため多額の借金を背負った。

「被災地への関心薄」は感じるが、被災者の立場に甘えない

 まもなく震災から4年。「被災地への関心が薄れたと思いますか?」と聞くと、木村氏はこう答えた。「それは感じます。もう復興したと考えている人もいるでしょう。しかし我々は被災者の立場に甘えないで、商品力で勝負したいです」

 さらに、こう続ける。「当社の強みは『金華さば』や『鯨大和煮』など、差別化できる自社ブランドを持っていることです。いい商品を作り続けるとともに情報発信を強化して、震災でご縁が生まれたみなさん以外にも、本物のおいしい味を伝えていきたい」

 三陸の海にも、かなり魚介類が戻ってきたという。「震災の影響で2年ほど、底引き網を使うトロール船が操業せず、結果的に海を休ませることができました」(木村氏)

「都合何千人でしょうか。たくさんのみなさんに助けていただきました」と話す木村氏には、震災後も不幸が襲った。まだ50代だった最愛の妻を病気で亡くし、昨年は自身も持病の手術を受けた。それでも前向きで、手術後の体調はよくなったと笑顔を浮かべる。立命館大学在学時代はボート部に所属して猛練習を重ね、インカレ優勝も果たした同氏。スポーツマンとしての基礎体力が、困難に立ち向かう気概を支えているのだろうか。

 一方、明るい話題もある。コンビニエンスストアチェーンのセブン-イレブンは宮城県内の店舗限定で、今年から同社の缶詰の販売をスタートさせる。バイヤーが食べ比べ、三陸産の味に感動した結果、仕入れ先を変えたのだ。

 また、鯨をイメージした外観の木の屋石巻水産の缶詰工場ではカフェも設置。16年に市内で開業予定の「石巻マルシェ」には、鯨料理を提供するレストランを出店させる。震災直後に期間限定で営業した「木の屋カフェ」で培ったノウハウも生かせそうだという。

 看板商品の「金華さば」は1缶300~400円台、「鯨大和煮」は同500円台で買うことができる。手のひらに載る缶詰には、石巻の再生と木の屋石巻水産の気概も詰まっている。
(文=高井尚之/経済ジャーナリスト・経営コンサルタント)

高井尚之/経済ジャーナリスト・経営コンサルタント

高井尚之/経済ジャーナリスト・経営コンサルタント

学生時代から在京スポーツ紙に連載を始める。卒業後、(株)日本実業出版社の編集者、花王(株)情報作成部・企画ライターを経て2004年から現職。出版社とメーカーでの組織人経験を生かし、大企業・中小企業の経営者や幹部の取材をし続ける。足で稼いだ企業事例の分析は、講演・セミナーでも好評を博す。近著に『20年続く人気カフェづくりの本』(プレジデント社)がある。これ以外に『なぜ、コメダ珈琲店はいつも行列なのか?』(同)、『「解」は己の中にあり』(講談社)など、著書多数。

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