1984年の連載開始以来、一貫して日本社会が抱える問題の本質を暴き続けてきた作家・村上龍のエッセイ「すべての男は消耗品である。」の14冊目となる最新刊『ラストワルツ』(KKベストセラーズ/刊)が発売された。
この刊では、作家自ら「ずいぶんとトーンが変わってきた」と述べているように、自身の老いの自覚と、それに伴う考え方や行動の変化に触れる箇所が多く見られる。かつてこのシリーズは、モナコやカンクン、ニューヨークなど海外の滞在先から原稿が送られてきて、日本社会の閉塞状況を一刀両断するのが定番だった。しかし最近は活動の重点が小説執筆とTV『カンブリア宮殿』など国内に置かれ、海外に出ることは少なくなっているという。そのぶん若さにものをいわせた論調から、過ぎた歳月の経験を踏まえる論調へと変わったとしてもなんの不思議もない。むしろ老いによってものごとへ向ける眼差しにいっそう深みが加わったといえる一冊だ。
なかでも、日本で今起こっている問題の根を見抜く村上氏の目は依然、健在である。アベノミクスの行く末や原発の再稼働、雇用問題、マイルドヤンキーの出現、メディアの現状などについて、鋭い持論を展開している。
アベノミクスは「最後のあがき」か
そろそろ目に見える成果が欲しいアベノミクスだが、「大きな成果を上げるとは思えない」というのが作者の意見だ。
「第一の矢」とされる「大胆な金融政策」で市場に資金を大量に流通させたところで、民間企業の生産性を上げるまでは至らず、「第二の矢」である「機動的な財政政策」も、従来の「バラマキ」と何が違うのかがわからない。そして、政府の切り札として掲げられた「第三の矢」の「民間投資を喚起する成長戦略」とはそもそも実現性の低いものだ、と作者は洞察する。
「第三の矢」の本丸は規制緩和であり、具体的には農業、医療、雇用など各分野の改革によって、既得権益層を守る「岩盤規制」を切り崩すことだ。しかし実はこれも、かなり前から必要が叫ばれてきたことを、改めてやろうと口にしているにすぎない。まして、「第一の矢」「第二の矢」と違い、明らかに不利益をこうむる既得権益層は、安倍内閣の支持基盤と重なっている。当然、彼らの既得権の切り崩しにかかれば強い反発が予想されるわけで、これを推し進めるのはどう考えても困難である。もしできたとしても成果が出るまでには長い時間がかかる。結局、アベノミクスは「最後のあがき」に終わり、日本経済は「停滞」したまま過ぎていく可能性が高い、というのである。
最後のワルツ、孤独な二人
もっとも、作者は「意味のある停滞」はありうると示唆している。中長期的なビジョンがあり、短期的な利益をとりあえず犠牲にして、将来に備えるという場合だという。成果が現われるのは10年先、30年後かもしれないが、絶対的な政策を採っているので、今は損益を被る層が一定数いてもやむをえないという事態である。
しかしそういう絶対的な政策が採れなければ、日本は「意味のない停滞」を続けることになり、衰退は確実になっていく。
そして作者はすでにそのような事態は来ていると見ているようだ。作中、「日本のどこを探しても希望のかけらもない」という衝撃的な一文に、それが象徴されている。
では、「意味のない停滞」に陥っているこの国に出口はあるのか? この状況を生き抜いていくために、何が必要なのか。
本書のなかで作者は、「希望のかけらもない」状況を、別れる直前に最後のワルツを踊っている恋人たち、寂しさの垂れこめる二人に重ねて、将来へのあり方を示唆しているように見える。「最後のワルツ、孤独な二人」とは、エンゲルベルト・フンパーディンクが歌う名曲「ラストワルツ」の詞の一節だ。これから先は、もはや誰にも依存しないで、一個人としてしっかり生きること。決してニヒリズムには行かないこと。それが希望へと向かう第一歩、生き抜くための必要条件だと、つよく暗示しているのだ。
その突き放し方が、読者へのエールとなっているところが心地よい。
作者が直接的な答えを示すことはありえないが、本書を熟読すれば、自分なりの答えを探し当てるヒントが、ページの中にいくつも見つかるにちがいない。
(新刊JP編集部)
※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。