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ワンオクTaka、マイファスHiroの“両親問題”論考…森進一の裁判、森昌子の引退

文=ミゾロギ・ダイスケ
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「港町ブルース」や「おふくろさん」など、数多くのヒット曲で知られる歌手の森進一。彼が、ONE OK ROCKのTakaや、MY FIRST STORYのHiroの父親であることを、若い読者はご存じだろうか?(画像は2016年にビクターエンタテインメントより発売された『森進一ベスト〜歌手生活50周年記念盤〜』のジャケット)

 人気ロックバンドであるONE OK ROCKのボーカリストであるTakaと、MY FIRST STORYの同じくボーカル担当のHiroは兄弟で、2人の離婚した両親がどちらも有名歌手であることを認識している人は多いだろう。しかし、具体的にどのような人物だったのか、あまりイメージがわかないという若い世代の読者も少なくないのではなかろうか。そこで本稿では、TakaとHiroの父親・森進一と母親・森昌子の経歴について、21世紀育ちの音楽ファンにも理解できるように解説していきたい。

 まず前段として確認しておきたいのは、森進一と森昌子の苗字が同じなのは、偶然であるということだ。どちらもデビュー当時からの芸名であり、それぞれ出生名は森内一寛、森田昌子である。Takaの本名は「森内貴寛」、Hiroは「森内寛樹」だが、これは父親の苗字を今も名乗っているからだ。

ジャニーズ勢も破れない紅白トリの最年少記録、虚偽の婚約不履行騒動でまさかの悲劇

 TakaとHiroの父親である森進一は、第二次世界大戦の終戦から2年後の1947年11月生まれ。父親のいない家庭に育った彼は、中学卒業直後に就職している。より好条件を求めて職を転々としていた18歳の頃、森進一は『リズム歌合戦』(フジテレビ系)という、今でいえば『THEカラオケ★バトル』(テレビ東京系)のような、一般公募の視聴者が歌唱力を競う番組に出演。ここで優勝することで、大手芸能プロの渡辺プロダクションにスカウトされ、一転、歌手デビューを目指すことになる。

 関係者がその売り出し方を検討した結果、“あえて声を潰して、しゃがれ声で唸るように女心を歌う”という路線が決まり、1966年に『女のためいき』という曲でデビューを果たした。美声自慢の歌手が多かったその時代、ハスキーボイスのボーカリストは強烈なインパクトを残すことに。デビュー曲はヒットし、続く『命かれても』、『盛り場ブルース』といった楽曲を連続ヒットさせることで、森進一は人気歌手の仲間入りをした。

 デビュー3年目にはNHK『紅白歌合戦』に初出場。続いて翌1969年には、『港町ブルース』の大ヒットで22歳にして「日本レコード大賞」の最優秀歌唱賞を受賞。さらに『紅白歌合戦』のトリ(紅組ないしは白組の最後に歌うこと)を務めている。これは、50年以上たっていまだ破られていない、白組トリの最年少記録だ。嵐の初トリの際(2014年)にもっとも若い松本潤は30歳を過ぎており、SMAPが初めてトリを務めた2003年末に最年少メンバーの香取慎吾は26歳だった。

 また森進一は『紅白』において通算で、大トリ(すべての歌手の最後に歌うこと)5回を含む計9回のトリを任されている。これらは、男性歌手で歴代3位の記録である。

 1971年には『おふくろさん』という曲で2度目の「日本レコード大賞」最優秀歌唱賞を受賞するなど、すべてが順風満帆だった彼に、まさかの悲劇が起こる。実母、つまりTakaとHiroの父方の祖母にあたる人物が自死したのだ。

 この一件は、森進一がある女性ファンから婚約不履行で訴えられたことが原因だとされる。そのファンは、実母が入院した際に病院を見舞い、そこで親切にされたことがきっかけで「森と婚約したが不履行にされた」と主張するようになる。人気スターの母親は、思いもよらぬ騒動を苦に自ら命を断ったのだった。ただしその後、裁判において、このファンの主張は虚偽であり、婚約そのものがまったくの事実無根だと証明されている。

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森進一の前妻、歌手の森昌子。つまり、TakaとHiroの母親である。(画像は2016年にキングレコードより発売された、森昌子デビュー45周年記念アルバム『百年の恋歌〜時を超えて〜』のジャケット)

最先端ミュージシャンと画期的コラボ、森昌子の前に時代を代表するトップ女優と結婚

 そんな不幸な出来事を乗り越えて、森進一は1974年に歌手として新境地を開く。当時、フォークソングが最先端の音楽として若者を中心に人気を集めていたが、そのジャンルを代表するアーティストだった吉田拓郎に曲作りを依頼するのだ。

 こうして生まれた『襟裳岬』(作詞:岡本おさみ)は、時代を超えて歌い継がれるヒット曲となった。この年の大晦日に「日本レコード大賞」を受賞し、『紅白歌合戦』では自身初の大トリを務めた森進一は、当時の歌謡界の頂点に到達したといえるだろう。

 補足すればこの時代は、「日本レコード大賞」『紅白歌合戦』ともに注目度が今とは比較にならないほど高く、前者のテレビ中継(TBS系)は45.7%、後者に至っては74.8%という怪物的な視聴率を獲得していた(ビデオリサーチ調べ、関東地区/以下同)。2020年に放送された『第62回輝く!日本レコード大賞』の16.1%、『紅白歌合戦』後編の40.3%という数字と比べると、そのすさまじさは歴然としていよう。

 なお、現在でこそ石川さゆりを椎名林檎がプロデュースする、坂本冬美が桑田佳祐の楽曲を歌うといったケースはよく見られるが、70年代においては、演歌系歌手が他ジャンルのアーティストの曲を歌うことなど本当に珍しいことだった。その点において、森進一はパイオニア的存在なのである。やがて本人は、「僕が歌っているのは演歌ではない。流行歌です」といった発言をするようになっていく。

 そして、渡辺プロから独立後の1982年には、前年に『A LONG VACATION』がオリコン年間アルバムチャートで2位になったミュージシャン・大滝詠一が手掛けた『冬のリヴィエラ』を歌い、大ヒットさせる。ポップス系のこの楽曲は、当時の若い層にも支持された。

 時期は前後するが私生活では、32歳であった1980年に、当時33歳の女優・大原麗子と結婚している。大原は多くのテレビドラマに主演クラスで出演し、CMでも人気のトップ女優だった。ちなみに、2021年2月の時点で33歳のトップ女優といえば長澤まさみだが、当時の大原は少なくとも現在の長澤と同レベルのメジャーな人物だったことは間違いない。しかし、多忙な2人の結婚生活は長続きせず、1984年には離婚。見方を変えれば、この夫妻が長く円満な関係を続けていたら、TakaとHiroはこの世に生まれなかったことになる。

伝説的オーディション番組からデビュー第1号、山口百恵と並ぶ70年代のトップアイドルに

 一方、TakaとHiroの母親である森昌子は、森進一が生まれた11年後の1958年10月に生まれた。

 彼女は、中学生だった1971年に、放送開始されたばかりのオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系)に出場している。『スター誕生!』は、近年の『ラストアイドル』(テレビ朝日系)、『Nizi Project』(Huluほか)のような、グループ結成を前提とし、そのメンバーを選抜するオーディションとは異なる。ポップス、フォーク、ロック、演歌などジャンルは問わず、あくまでソロデビューを目指した個人が評価され(デュエットでの出場者もいた)、決戦大会にて芸能プロ、レコード会社のスカウトマンから獲得の意思を表明された者のみがデビューできるという形式だった。

 のちに桜田淳子、山口百恵、片平なぎさ、岩崎宏美、ピンク・レディー、石野真子、柏原芳恵、小泉今日子、中森明菜、松本明子らを輩出する同番組から最初にデビューした者こそ、森昌子だ。彼女は大手芸能プロ「ホリプロ」と契約し、1972年7月にファーストシングル『せんせい』をリリース。当時13歳と、平手友梨奈が最初に欅坂46のセンターを務めた年齢よりも若かった。『スター誕生!』のバックアップもあり、まだあどけなさも残る新人歌手はアイドル的な人気を獲得し、『せんせい』は50万枚の大ヒットとなった。

 その後『スター誕生!』は、1973年2月に番組史上最高の25社からスカウトを受けた桜田淳子を、同年7月に20社からのスカウトを受けた山口百恵を、それぞれアイドル歌手としてデビューさせている。桜田淳子はのちに松田聖子ら多くのアイドルを生む「サンミュージック」、山口百恵は森昌子と同じ「ホリプロ」の所属となる。

 同じ番組出身で同学年の昌子、淳子、百恵は、「花の中3トリオ」として売り出され、その相乗効果もあって70年代を代表する人気アイドルに成長していく。それぞれがソロ歌手であり、トリオで曲を出すことはなかったが、学年が変わるごとに「高1トリオ」「高2トリオ」と呼称を変えながら、そろって『花の高2トリオ 初恋時代』(1975年)という映画に主演する、合同コンサートを開催するなどした。なお3人のなかでは、デビューが早かった森昌子が常にセンターの扱いだった。

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1975(昭和50)年に東宝の配給で公開された映画『花の高2トリオ 初恋時代』。写真左より山口百恵、森昌子、桜田淳子。東宝、ホリプロダクション(現ホリプロ)、サンミュージックの提携作品であった。(画像はホリプロより発売のDVD版ジャケット)
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子宝に恵まれた“森森カップル”は3人の男の子を育てた。その長男がワンオクのTaka、三男がマイファスのHiroである。画像は、2017年に発売された森昌子著『母親力 息子を「メシが食える男」に育てる』(SB新書)。

本格演歌歌手として不動の地位を確立、女優としては裏番組の『北の国から』を追い込む

 1977年に高校を卒業した頃から、森昌子は本格演歌歌手として活動を開始する。山口百恵が引退し、桜田淳子の歌手活動が停滞していた1981年には、23歳にして『紅白歌合戦』で紅組トリを務めるなど、実力派として確固たる地位を確立。「日本レコード大賞」最優秀歌唱賞を受賞した1983年の『越冬つばめ』は、今でもカラオケ人気の高い彼女の代表曲となった。

 また、芝居も手堅くこなし、映画『どんぐりッ子』(1976年)、『お嫁にゆきます』(1978年)、テレビドラマ『想い出づくり。』(TBS系/1981年)などに主演。特に山田太一脚本で、古手川祐子、田中裕子、柴田恭兵と共演した『想い出づくり。』は、名作ドラマとして名高い。のちにヒットシリーズとなる倉本聰脚本の『北の国から』(フジテレビ系)はこの番組と同時間帯に放送されていたため、当初は視聴率面で苦戦を強いられていた。

Taka、Hiroの両親の結婚披露宴中継のまさかの視聴率、夫婦デュエット活動が引き起こした悲劇

 森進一と森昌子が結婚したのは、1986年のことである。

 70~80年代はテレビの歌番組の全盛期であり、共演することが多かった人気歌手の2人の関係は、いつの間にか恋愛関係に発展したのだ。80年代当時、山口百恵&三浦友和、松田聖子&神田正輝など芸能人カップルの結婚披露宴中継がいずれも高視聴率を稼いでいたことから、2人の華燭の典も日本テレビ系のゴールデンタイムで中継された。その視聴率は、45.3%という驚異的なものだった。なお、結婚を機に森昌子は、事実上の引退状態になった。

“森森カップル”と呼ばれた夫妻は子宝に恵まれた。結婚から2年後の4月17日に第一子、つまりTakaが誕生。その後も2人の男児を授かり、そのうち三男に当たるのが、Hiro(1994年1月25日生まれ)である。

 森昌子が歌手復帰を果たしたのは、Takaが中学生になった2001年のこと。この年の大晦日に、16年ぶりに『紅白歌合戦』に出場。これをきっかけに、翌年から森進一とデュエット曲を歌うなど、夫婦でコンサート活動を行うようになる。なお、当時ジャニーズ事務所に所属していたTakaがNEWSのメンバーとして歌手デビューしたものの、短期間でグループを脱退したのは、母親の復帰後の2003年のことである。

 そろって芸能活動を行い夫婦円満に見えた森進一と森昌子だが、結婚19年目の2005年に、離婚という結末を迎えることになる。これについては、仕事を通じて意見の食い違いが生じるようになり関係が悪化したと報道されている。なお2005年は、ジャニーズ事務所を離れたTakaがONE OK ROCKを結成した年で、Hiroはまだ11歳だった。

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森夫妻の長男で、ONE OK ROCK(ワンオク)のボーカルとして国内外で活躍中のTaka。本人の公式Instagramより。
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森進一は自身のInstagramで、中学生時代のTakaとの家庭でのツーショット写真を公開して話題に。本人の公式Instagramより。

離婚を経て完全復活の母親は13年後に再び引退、父親は今も現役、昨年はHiroとテレビで共演

 森昌子は離婚の翌年、古巣のホリプロからソロ歌手として完全復帰することを発表。新曲も発表し、『紅白』にも出場した。2009年にはホリプロから独立プロに移籍、健康状態の悪化など心配なニュースもあったものの、安定した歌唱力でマイペースな活動を続けた。

 ところが、そんな彼女が再び引退宣言をする。子どもたちが一人前に育ち、自身が還暦を迎えた2019年のことである。私人としての生活を優先させたのか、「人生を充実させたい」との理由で、その年限りでステージを降りたのだ。

 一方、森進一はデビュー50周年となった2015年を最後に48回連続出場(当時の最多記録)を果たした『紅白』から勇退したものの、現在も歌手として活動中。2020年11月放送のテレビ番組『まつもtoなかい~マッチングな夜~』(フジテレビ系)では、三男のHiroと共演。先日は自身のInstagramで、中学生時代のTakaとの家庭でのツーショット写真を公開して話題を集めた。 

 このように、TakaとHiroの両親は、戦後歌謡史に燦然と輝く人気歌手であったことがおわかりいただけただろうか。

 音楽の世界で成功した両親から生まれた子どもが必ずしもその才能を受け継ぐとは限らない。しかし、少なくともTakaとHiroに限っては、父親、母親のDNAをおおいに継承した……と考えて間違いないだろう。

ミゾロギ・ダイスケ

ミゾロギ・ダイスケ

ライター・編集者・昭和文化研究家/映画・アイドルなど芸能全般、スポーツ、時事ネタ、事件などを守備範囲とする。今日の事象から、過去の関連した事象を遡り分析することが多い。著書に『未解決事件の昭和史』(双葉社)など。

Twitter:@D_Mizorogi

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