ビジネスジャーナル > 社会ニュース > ここがおかしい「大崎事件再審棄却」  > 2ページ目
NEW
江川紹子の「事件ウオッチ」第131回

江川紹子による考察…「大崎事件再審棄却」から見えた「人権救済を阻む砦」と化す最高裁への危惧

文=江川紹子/ジャーナリスト
【この記事のキーワード】, , , ,

 たとえば、オウム真理教で最初の死刑確定者となった坂本弁護士一家殺害事件の実行犯の2005年4月7日付判決では、被告人の名前が出ていないのはもちろん、教団名まで伏せられている。財田川事件の死刑再審を導くことになった1976年の最高裁決定では、谷口繁義さんの手記の筆跡鑑定を行った香川県警鑑識課員が作成した書面のタイトルを、「Qにかかる再審請求事件に関する筆跡についての検討結果について」と順番に振ったアルファベットを当てはめて、谷口さんの名前を出すのを避けている。

 裁判所が判決文で、先輩裁判官の間違いを謝った異例の判決として知られる吉田岩窟王事件の再審無罪判決(1963年2月28日名古屋高裁)も、「裁判例情報」では同様の処理がなされ、謝罪の部分は次のようになっている。

<当裁判所は被告人否ここでは被告人と云うに忍びずA3翁と呼ぼう。吾々の先輩が翁に対して冒した過誤を只管(ひたすら)陳謝すると共に実に半世紀の久しきに亘(わた)り克(よ)くあらゆる迫害に堪え自己の無実を叫び続けて来たその崇高なる態度、その不撓不屈の正に驚嘆すべき類なき精神力、生命力に対し深甚なる敬意を表しつつ翁の余生に幸多からんことを祈念する次第である>

 自ら名前を出して戦い、名前が事件名にもなり、裁判所が判決文で謝罪し、いわわば金字塔となった吉田石松翁の名前すら匿名化しているのに、原口さんの実名を掲載するというのは、理解し難い。

 ちなみに私自身は、こうした判例集にはできるだけ実名を出してほしいと考えている。特に公人や無罪となって名誉回復したい個人の氏名、オウムのように事件名と結びついた組織的事件の組織名などは、出すべきだろう。ただ、本件の後に掲載された判決では、固有名詞は伏せられており、最高裁が本件をきっかけに実名化へと方針変更をしたわけではない。

 しかも、今回の決定は、「犯行に至る経緯」と称し、原口さんについて「勝ち気な性格で、口数も多く」などと否定的に評している。こうした記述は、事件に関する裁判所の判断を記すうえで必要なものとはとうてい考えられず、「そういうこともやりかねない女」との印象を与えるイメージ操作にも見える。捜査機関から人殺しの主犯として追及されても、刑務所で反省文を書けば仮釈放してあげられると持ちかけられても、頑として「やっちょらん」と言い続けるには、相当の強い意思と自己主張が必要だったろう。それが「勝ち気な性格で、口数も多く」と表現され、だから事件に関与したかのように見られたのではたまらない。人権救済を求めている個人の人格を、最高裁がこんなふうに扱い、実名もろともサイトに掲載したのには驚愕した。

不都合な事実を無視して強気の姿勢に徹するのはなぜか


 メディアの取材に対し、最高裁は「実名かどうかは個別事件ごとに判断している」とし、決定を出した第一小法廷の意見に基づいていることを明らかにしたうえで、本件で実名を掲載した理由を「従来の報道等で氏名が知られている」と述べている。

 これでは、なんの説明にもなっていない。問われているのは、名前が公知の事実となっている人についても個人名を伏せていた最高裁が、なぜ今回に限って、有罪判決を受けて再審を求めている者の実名を出す差別的な取扱いをしたのか、という点である。ここでも最高裁は、不都合な問いには答えず、事実上無視を決め込んだ。

 最近読んだ本の中に、以下のような一文があった。

<裁判の国民に対する信頼は、裁判の結論それ自体ではなく、その理由によってこそ支えられているのであり、理由の誠実な明記は民主主義国家において説明責任を果たすべき裁判所の義務であると言える>(岡口基一『最高裁に告ぐ』より)

 これは、東京高裁判事の岡口氏が、自身が担当していない裁判の判決についての報道を紹介したツイッター上のコメントが、裁判当事者を「傷つけた」として、最高裁が分限裁判を開いた際に提出された、木下昌彦・神戸大学准教授(憲法)の意見書の一部だ。意見書原文に当たってみると、国民の関心が高く、波及効果が大きい事件については、とりわけ結論だけを告げるのではなく、判断の理由を国民が分かるようにきちんと説明すべきだ、と木下准教授は書いていた。その通りだと思う。

 事件の種類は異なるが、大崎事件も、今回の決定が大きく報じられ、注目度は高い。それに、最高裁の再審請求についての判断が、全国の裁判所に対して影響を及ぼさないわけがない。だからこそ、判断の理由を丁寧に説明することが求められているのに、本件での最高裁は、不都合な事実や指摘や問いは無視し、理由を説明せずに結論だけをズンズン押し付ける。そんなひたすら強気の姿勢に徹しているように見える。

 いったい、それはなぜなのか。

 本件では、地裁と高裁の裁判長の訴訟指揮によって、それまで埋もれていた検察側の未提出証拠が次々に開示されてきた。裁判所が強く求めない限り、検察は証拠を出さない。だが、証拠開示に積極的な裁判官ばかりではなく、裁判所の判断には格差がある。そのため、再審請求審でも通常審のような検察側の証拠開示を求めるなど、再審に関する法整備の必要性を語る声は、かつてないほど高まっている。

 象徴的な事件となった大崎事件の再審を潰した今回の決定は、こうした再審法整備の気運に冷や水を浴びせた。さらに、再審開始に消極的な最高裁の姿勢を全国の裁判所に示すことで、他の事件でもそうそう再審開始を決定したりしないよう、にらみをきかせる“効果”もあるだろう。

 日本では、再審への門は限りなく狭いが、それでもこの10年間に、足利事件、東電OL殺害事件、布川事件、大阪東住吉放火事件、松橋事件など、重大事件の再審無罪が相次いだ。袴田事件は、地裁の再審開始決定と同時に死刑囚だった袴田巌さんが釈放された。再審開始決定は高裁で覆されたものの、釈放については取り消されず、袴田巌さんは今も塀の外で暮らし、最高裁の判断を待っている。

 こうした状況を見て、冤罪を訴える人たちの再審への期待は膨らんでいる。再審法が整備されれば、これまで以上に再審による人権救済が可能になるかもしれない。

 一方、法的安定性を重視する人たちは、再審により相次いで確定判決が覆る事態は、秩序維持や司法の権威にとって実によろしくないと考え、今の事態を苦々しく思っているのではないか。

 それに、そう遠くない将来、裁判員裁判で有罪判決を受けた人の再審請求が起きることも考えられる。裁判員の辞退者が増えているうえ、裁判員裁判が出した判決の量刑を上級審が変更するだけで批判される状況の中、制度維持に腐心する最高裁としては、裁判員事件で再審が行われる事態は、あって欲しくない悪夢だろう。

 ただでさえ困難な再審のハードルをさらに引き上げて、いったん確定した判決が覆りにくくする状況をつくり出すことで、法的安定性を高めたい。「裁判所は間違わない」という無謬神話を再構築したい。司法の権威を強化し、現行制度を維持したい――今回の最高裁の強引な対応からは、そんな意図が感じられてならない。

 もはや最高裁は、不当な権力行使から人々を守る「人権の砦」ではなく、自らの権威と制度護持のために「人権救済を阻む砦」と化しているのではないか。本件を巡る最高裁の対応は、そんな危惧を抱かせる。
(文=江川紹子/ジャーナリスト)

江川紹子/ジャーナリスト

江川紹子/ジャーナリスト

東京都出身。神奈川新聞社会部記者を経て、フリーランスに。著書に『魂の虜囚 オウム事件はなぜ起きたか』『人を助ける仕事』『勇気ってなんだろう』ほか。『「歴史認識」とは何か - 対立の構図を超えて』(著者・大沼保昭)では聞き手を務めている。クラシック音楽への造詣も深い。


Facebook:shokoeg

Twitter:@amneris84

江川紹子による考察…「大崎事件再審棄却」から見えた「人権救済を阻む砦」と化す最高裁への危惧のページです。ビジネスジャーナルは、社会、, , , , の最新ニュースをビジネスパーソン向けにいち早くお届けします。ビジネスの本音に迫るならビジネスジャーナルへ!