一人の男性が放った「憎悪の炎」が、世界に誇る日本文化の担い手たちの命を一瞬に奪った。
死者34人、重軽傷34人(7月20日現在)。これは殺人事件としても1938年(昭和13年)に岡山県で起きた猟銃による「津山三十人殺し」を上回る、国内史上最悪の犠牲者数。放火殺人としては、2008年に起きた大阪ビデオ店放火事件の16人の倍以上に上る犠牲者数だ。
火勢強めた螺旋階段
史上最悪の悲劇の舞台は、アニメファンに「京アニ」という呼称で親しまれる映像製作会社「京都アニメーション」(本社・宇治市)の京都市伏見区にある第一工場だった。
「死ねーっ」――。7月18日午前10時30分頃、赤いTシャツにGパン姿の青葉真司容疑者(41)が無施錠の玄関から押し入り、ポリバケツのガソリンをぶちまきライターで火をつけた。ドーンという大音響と同時に炎が一瞬で広がる。「キャー、助けてー」。逃げ惑う若い女性たちの悲鳴をせせら笑うように、炎は吹き抜けの螺旋階段から瞬時に3階に達した。
当初、ニュースを見て犯人が2階や3階にガソリンを撒いたわけでないのにすぐに燃え上がったことが不思議だったが、螺旋階段の存在を知って氷解した。しかも男がガソリンを撒いたのは螺旋階段の近く。気温も高くガソリンはあっという間に気化して爆発的な燃焼を起こしたのだ。このため青葉容疑者も全身に大火傷を負った。知識がなかったのだろう。
京阪電鉄の六地蔵駅前に広がる住宅街の3階建てビルからは一時、火山の噴火のような黒煙が昇った。10時半頃、「爆発音とともに建物全体から煙が出ている」との通報で消防が駆け付けたが手が付けられない。消防士が3階に入れたのは午後2時頃だ。1階から逃げた人や怪我覚悟で2階から飛び降りた人、住民に救出された人は助かった。
もっとも悲惨だったのは3階から屋上へつながる階段付近。19人が折り重なるように倒れていた。消防署の調べでは屋上に出る扉の鍵はかかっておらず、重度の火傷や呼吸困難で力尽きたのか。大半は一酸化炭素中毒だったという。火災発生時、ビルにいた従業員や取引関係者など74人の大半は猛火に驚き、上へ逃げてしまった。
放火犯と知り仰天
近所で日本舞踊を教える女性はこう話す。
「10時頃、稽古のテープを回したら、ドーンという音がした。子供がボールでも壁にぶつけたんかと思ったら、すごい匂いがしてきた。外へ出ると京アニさんから激しく煙が上がっていた。消防団にガレージを貸すと担架で若い女性が運ばれてきた。服は焼けただれていた。息はあったけど放心状態でした」
大きな爆発音は2回。あとは散発的に音が何度も聞こえたという。「塗料とかスプレーとかでしょうか」。一緒にいた女性は「工場前の道をいつも通るのでコンビニ弁当を買いに出る社員さんによく会います。みんないい子たち。こんなことになるなんて」と目を伏せた。
近くでエステサロンを営む女性は語る。「朝10時35分頃にインターホンが鳴った。人影が映ってなかったけど飼い犬が鳴くので出たら左側に男性(青葉容疑者)が仰向けで倒れていた。腕は皮がめくれ上がり、脛から下がむき出しでGパンから煙や火も出ていた。近所の人に冷やしたらな、と言われてホースで水をかけ、声をかけたけど返事はなかった。やってきた警官とのやり取りを聞いて、被害者じゃなくて放火犯と知り仰天しました」
警官の「何したんだ。どうしてそんなことした」や青葉容疑者の「パクりやがって。ガソリンまいて(多目的ライターの)チャッカマンで火つけた。チャッカマンは投げた」などと聞こえたそうだ。
「京アニに恨みがあるような言い方もしてたけど、息遣いは苦しそうでした」
女性は「どうして消防士が屋上から助けられなかったのでしょうか。京アニさんはクオリティの高い作品をつくれる優秀な子ばかりと聞きます。日本の財産が失われた気持ちです」と悔しがった。現場には海外メディアの取材班も驚くほど多かった。この女性によると、前日に知人女性が同容疑者とみられる人物と遭遇したが「異様な雰囲気で怖かった」と話していたという。
容疑者は京アニをどこまで知っていたのか
さいたま市在住の青葉容疑者は、アニメ工場近くのガソリンスタンドで「発電機に使う」と20リットルの携行缶2つにガソリンを購入し、台車で運んでいたとみられる。自治体によって取り決めは異なるが、車に給油しない場合は身分証明書をコピーされ、その後はサインなどが必要なケースもある。こうした手続きはなされたのか。ガソリンスタンドを訪れ尋ねたが、話を聞くことはできなかった。
青葉容疑者は病院で意識不明に陥り聴取ができないが、警官に「小説を盗みやがった」と話したという。「パクられた」とは剽窃のことなのか。しかし、今のところ、青葉容疑者が小説などを書いていたという情報はないという。 同容疑者は自宅アパートでも近隣トラブルが絶えず、コンビニ強盗事件を起こして懲役刑に服役していた。精神疾患の可能性もあるという。
京都では「社長を出せ」と叫んでいたのを聞いた男性がいるが、それならなぜ宇治市の本社に行かなかったのか。本社と製作工場が離れていることも知らなかったのか。それでも、普段施錠している工場の玄関が、この日は来客のために開放されていたことを知っていたのか。
同容疑者は京アニに勤務していた経歴はない。八田英明社長は「数年前から死ねとか、殺人(予告)メールみたいなのが会社にもあった」と話すが「青葉容疑者の名は聞いたことがない」と首を傾げる。
京都府警は現住建造物等放火と殺人などの容疑で捜査している。府警は20日、青葉容疑者について逮捕状を取ったが、回復を待って逮捕する方針だという。植田秀人本部長が現場に花束を供えに訪れ、「事件の重大性に鑑みて」として、逮捕しないうちに青葉容疑者の名を公表するという異例の措置を取った。
「犯人の意識不明は麻酔の投与のし過ぎでは」という噂まであるが、20日に京都の赤十字病院から、火傷専門の治療施設がある近大附属病院にヘリで運ばれた。一方、遺体の状況から判別が難しく、犠牲者の名前もまだ公表されていない。解明には時間がかかる。