先日、2017年のNHK大河ドラマが『おんな城主 直虎』であることが発表された。女優・柴咲コウが演じる主人公の井伊直虎は、現在放送中のNHK大河ドラマ『花燃ゆ』の主人公である杉文と同じく、知名度は低い人物だ。
直虎は、戦国ファンには「徳川四天王」の1人としておなじみの井伊直政の養母にあたる。一方、文は吉田松陰の妹だ。文は無名だが、兄の松陰は日本史の教科書などにも登場するほど知名度がある。
しかし、井伊家は直虎はもちろん、直政も教科書に登場することはない。つまり、17年のNHK大河ドラマは、視聴率で苦戦している今年より、さらに無名の人物が主人公というわけだ。
では、なぜ直虎が主人公に抜擢されたのだろうか。
まず、人気ゲーム『戦国BASARA』(カプコン)や『戦国無双』(コーエー)のキャラクターとして登場し、知名度を得たことが挙げられる。また、NHKの歴史教養番組『歴史秘話ヒストリア』では昨年、「それでも、私は前を向く~おんな城主・井伊直虎 愛と悲劇のヒロイン~」として取り上げられており、ある程度注目される要素があったといえる。
直虎自体は無名でも、織田信長、徳川家康、今川義元をはじめとした戦国武将が登場すれば、視聴者の興味関心をひきつけることはできる。また、直政の幼少時代を演じる子役が人気にでもなれば、話題づくりができ、視聴率にもつながるかもしれない。そんな流れが、17年の大河ドラマの背景にはあったと思われる。
謎が多い直虎の生涯とは
では、直政の一生を振り返りながら、謎多き直虎の生涯を追ってみよう。
直政の幼少時代は、苦難の連続だったといわれている。誕生の翌年にあたる永禄5(1562)年、父の井伊直親が主家の今川家に対する謀反の疑いをかけられ、今川氏親によって殺害されてしまう。さらに、遠江国有数の名家だった井伊氏の領地は没収されたため、直政は親族によって養育された。
直政の不幸は続く。養父が合戦で討ち死にしてしまい、養母によって寺院に預けられ、ようやく命脈を保つことができた。直政の実母は今川氏の家臣と再婚していたが、今川氏の滅亡後、夫が家康の家臣として“再就職”し、やっと寺院から直政を引き取ることができたようだ。
天正3(1575)年2月。家康は、鷹狩の帰り道に浜松城下で15歳の直政を見かけ、美麗かつ聡明な姿にひかれて家臣に抜擢した。以後、直政は家康の側近として、出世街道を突き進むことになる。
一説によると、直親の死後、養祖父にあたる井伊直盛の娘が「直虎」と名乗り、女性でありながら井伊家の当主となったそうだ。そのため、直政は義母にあたる直虎に育てられたという。
戦国時代では、正当な後継者の男子が成長するまで、母親または一族の女性が領主の権限を代行する「女城主」「女地頭」が存在した。江戸時代に成立した井伊家の正史では、直虎の存在は無視されていたが、近年では直虎は戦国の女城主の一例として注目を集めている。
家康は、15歳の直政が自身に忠実に仕える様子を見て、信頼感を抱いた。そして、出自をたずねたところ、名家・井伊家の嫡流(直系の血筋)であることを知る。
家康も、幼い頃に織田氏から今川氏へ、人質としてたらい回しにされた経験があるため、似たような境遇の直政に対して共感を抱く。そして、直政が文武兼備の戦国武将に成長するように、自身の手で鍛え上げた。
直政は家康の期待に応え、関ヶ原の戦いでは勝利の立役者の1人となり、彦根藩18万石の大名に累進する。
直政は井伊家の直系ではなかった?
直虎と直政の関係を整理すると、滅亡の危機に瀕していた井伊家を救うため、一族の女性が「直虎」と名乗り、幼い直政を育てた――ということになる。没落した名家が復活するという感動話ではあるのだが、直政の生い立ちは家康の苦難の少年時代と酷似しており、演出や創作のにおいもする。
家康は、側近のなかで優秀だった少年に対して井伊の姓を与え、名家を乗っ取ろうと画策したという説もある。井伊氏が幕府に提出した公式な系図には、直政は井伊氏の直系と記録されている。
しかし、系図の操作は簡単にできることであり、直政は井伊家の傍系あるいは無関係だったという類推もできる。
直虎は、天正10(1582)年に没するまで、成長した直政に家督を譲渡することはなかった。これを、井伊家を守るための直虎の抵抗だったと考えると、隠された歴史の真実を読み解くことができるかもしれない。
(文=外川淳/歴史アナリスト)