ところが、マルクスの階級論には問題があった。規模は小さくても自前の工場や店舗を持つ中小の自営業者はブルジョワジーとして支配階級に属することになるし、一方で、国家権力の一端を担うがサラリーマンにすぎない官僚は被支配階級のプロレタリアートになってしまう。
マルクス自身、この問題に気づいていた。死後の1894年に出版された主著『資本論』最終巻の「諸階級」と題した最終章で「しかしながら、(自分の)この立場からすれば、たとえば医者と役人も二つの階級を形成するであろう」などと述べ、自説への不満をにじませている。けれども『資本論』の原稿はここで中断し、続きが書かれることはなかった。
実は、もっと論理的に整合性のある階級論がマルクス以前に存在した。マルクスの階級論が有名なため、階級論そのものがマルクスによって考案されたと誤解されがちだが、それは違う。むしろマルクスは以前の階級論を参考に、自説を組み立てたのである。
その階級論が生まれたのは、1810年代のフランス。ナポレオンの失脚後、ブルボン朝が一時復権した復古王政の時代だ。自由主義派と呼ばれる知識人によって理論が構築された。中心となったのは法律家シャルル・コント、経済学者シャルル・ディノワイエ、歴史家オーギュスタン・ティエリの3人である。
自由主義派の階級論によれば、社会で人間が自分の欲求を満たす方法は2つある。自分で働いて富を生産するか、他人が生産した富を奪うかである。あらゆる社会において、人は生産によって生きる者と、略奪によって生きる者とに区別される。この2つの集団の利害は対立する。マルクスの言葉をもじって言えば、「これまでのすべての社会の歴史は、略奪階級と生産階級の闘争の歴史である」ということになる。
自由主義派によれば、古代ギリシャやローマでは、戦争を通じた兵士の略奪行為が好まれた。中世には武人出身の貴族が台頭し、農民を搾取した。近代になると、露骨な略奪が難しくなったため、別の巧妙な方法が使われるようになる。税金という名の貢ぎ物である。
つまり近代国家の国民は、税金によって生きる支配階級と、税金を取られる被支配階級の2つの集団に分かれる。前者は最近の言葉で言い換えれば、上級国民ということになる。暴走事故を起こした飯塚元院長は税金を収入源としてきた元官僚だから、上級国民と呼ぶのは間違っていない。