わが国は、もともと「倭国」と「日高見国」という2つの国に分かれていたという。そして、いつの頃からか、2つに分かれていたのがひとつに統一され、「日本国」と名乗るようになったというのだ。
しかし、そんな話はこれまで聞いたことがない。
倭国といえば、「邪馬台国」「大和朝廷に連なる原始的国家」などと連想できるが、その倭国と対立する日高見国があったという説を聞いてもピンと来ないし、イメージが浮かばない。
前稿で、そういった記録が古代中国の正史『旧唐書』と『新唐書』に残されていることを紹介したので、今回は、実はわが国でも、その説がいろいろなかたちで記録されていることをお伝えしたい。
まずは古代日本の正史『日本書紀』だ。景行天皇27年2月27日条に、北陸および東方諸国の視察旅行を終えて帰国した大臣・武内宿禰の報告というかたちで、驚くべきことが記されている。
「東(あづま)の夷(ひな)中に日高見国(ひだかみのくに)有り。其の国の人男(おのこ)女(めのこ)並に椎(かみ)結(わ)け身(み)を文(もどろ)けて為人(ひととなり)勇み悍(こわ)し。是を総て蝦夷(えみし)と曰ふ。亦土地(くに)沃壌(こ)えてひろし。撃ちて取りつべし」
大意は、次の通りである。
「東国の田舎に日高見国がある。その国の人は髪を結い分け、体に入れ墨を施し、勇敢で強い。これをすべて蝦夷という。また、土地は肥沃で広大である。ぜひ、攻撃し奪い取るべきである」
なんともはや、勇ましい発言である。
この報告に基づいて決行されたのが、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東国遠征であり、その結果を伝える記事が、景行天皇40年是歳条だ。
「蝦夷すでに平らぎ、日高見国より還り、西南のかた、常陸を経て、甲斐国に至る」
「上総国から海路で日高見国入りした日本武尊が、国境近くで蝦夷の首領たちの降伏を受け入れ、日高見国から帰還した」と書かれているが、その意味するところはなんだろうか。
単純明快。武内宿禰が視察旅行を報告した景行天皇27年時には、完全な独立国だった日高見国が、その13年後には日本武尊によって征服され、大和朝廷の支配下に入ったということである。つまり、日高見国とは、後の陸奥国のことだったということがわかる。
しかし、そう簡単ではない。「陸奥国=現在の東北地方一帯に広がる国」とイメージしてもいいのだろうか? 否である。「日高見国=陸奥国」ではない。これは、そんなに簡単に結論づけてはいけないのかもしれない。
なぜなら、もうひとつ面白い文献があるからだ。
日高見国は東日本に広がっていた?
713年に編纂され、721年に成立した『常陸国風土記』である。これを、日高見国の謎を解く第3の文献として『旧唐書・新唐書』『日本書紀』の後に挙げておかなければいけない。
『常陸国風土記』には、常陸国信太郡(稲敷郡の一部)について、「此の地は本の日高見国なり」と書いてある。また、蝦夷征伐に向かった黒坂命(くろさかのみこと)という人物が同国多賀郡で病没し、その柩が信太郡に送られて来たことを「日高見国に到る」と表記している。
こうなれば、「常陸国信太郡=日高見国」だったと捉えるしかない。しかも、信太は「しだ」と読み、耳で聞く限り「日高見(ひだかみ)」と近い。しかしながら、やはりそう簡単ではない。
信太郡は、どちらかといえば常陸国では南寄りの地域で、その限定された地域だけが日高見国だったと決めつけるのは速断にすぎる。前述の報告で、武内宿禰は、「土地沃壌えてひろし」と言っている。郡のひとつや2つを奪い取ろうとしているわけではないことが、理解できるからだ。
そうなれば、常陸国も陸奥国も含む広大な領域、つまり東日本全域に広がる壮大な国をイメージしないわけにはいかないだろう。そして、信太郡はその中心地となる場所だったと思われる。近くには古代の聖地・筑波山がある。その麓には、壮麗な都があっても不思議ではない。
日本武尊は、東国平定戦の際に銚子沖から鹿島神宮と香取神宮の間を通過して内陸湖に入り、筑波山の麓にある港から上陸したという言い伝えもある。その場所を選んだのは、日高見国の本拠地だったからではないだろうか。
やはり、大和朝廷とは別の国が東日本にあったと考えられる。特に対立していたわけではなかったが、大和朝廷は国勢拡大のために「土地沃壌えてひろし。撃ちて取りつべし」と侵略宣言を発したのだろう。その国を平定・併合した後、倭国と呼ばれてきた国名を日本国に改めたのではないだろうか。そして、その語源は日高見国である。日高見国が日本国となったのである。このことは、別の機会に詳しく述べることにしよう。
(文=最上光太郎)