設楽氏は当時をこう振り返る。
「私の家や組合のオフィスを探したところで、犯罪になるような証拠が出るわけがない。あれは普通の抗議活動であり、訴えは捜索をするためのでっち上げでしかない。あのような捜索は、警察権力の筋書きの中に早くからあったものだと思う。
公安警察は、ターゲットが常にいなければならない。そうでないと彼らの存在意義がないし、予算もつかない。市民の治安を守るために、危険な存在をあえてつくりあげるのだ。
1960~80年代までは、警察は中核、革マル、革労協などの新左翼をターゲットにしていた。ところが、90年代に入ると新左翼は完全に弱体化した。公安警察は、新たなる敵が欲しくて仕方がなかった。
その敵のひとつが、東京管理職ユニオンの私だったのだろう。家宅捜索を受ける8年前の93年にユニオンを結成し、さまざまな会社と激しい団体交渉をしてきた。そのプロセスで、警察が目をつけてきたのだと思う」
公安にマークされていた?
設楽氏は60年の日米安保反対闘争の頃、慶應義塾大学に在学しながら運動にかかわっていた。大学中退後、労働組合や市民運動に身を投じてきた。公安警察の存在を強く意識したのは80年代の半ばから後半にかけてで、国鉄の解体をめぐる紛糾の頃だったという。
国鉄労働組合(国労)は労働運動のシンボル的な存在で、当時は依然として国会議員や政府に強い影響を与えていた。国鉄が解体されようとしているとき、設楽氏は国労の組合員と共に政府・与党である自民党と闘っていた。
設楽氏は、その頃から公安警察に目をつけられていた可能性が高いと語る。
「国労の組合大会に警察の機動隊が介入してきたとき、私は『機動隊を阻止しろ!』などと声を出し、国労や支援労組の組合員に呼びかけていた。警察は、『設楽が中心になって運動をしている』と見ていたはずだ。