米Googleは9月半ば、同社の研究する量子コンピュータが、世界最高のスーパーコンピュータで1万年かかる計算を200秒で行ったという論文を発表した。直後からビットコインが暴落し、これは大きな論争を呼ぶことになった。全世界に衝撃を与え、多方面から賞賛された発表だったが、IBMはグーグルの主張に重大な欠陥があるとして、研究結果を否定した。
さらに、IBMの研究者はこれを「ひとつの問題だけを解くためにつくられた研究室内の実験にすぎず、現実の用途に使用できない」「弁護の余地のない単なる間違い」とまで酷評した。IBM自体は、量子コンピュータのクラウド利用サービスも提供しているので、自信があったと思われる。グーグルが量子コンピュータ論文を発表したことで、同社と関係の深い中国の量子コンピュータ技術がアメリカを超えたのではないかという話にまで飛び火したが、問題の論文はネット上から削除されて話題は沈静化に向かっている。
暗号技術は軍事力の高さ
仮にグーグルの発表が正しければ、これは世界のパワーバランスを揺るがす大事件だ。ポイントは、量子コンピュータ技術の世界は中国がアメリカを猛追しているということと、グーグルは中国との関係が深いということだ。ドナルド・トランプ米大統領が必死にグーグルを叩いてきたのは、グーグルが米政府の意向よりも中国政府の意向を汲んできたためで、そのグーグルが量子コンピュータで世界最高だとすれば、米国にとってはリスクといえる。
中国が暗号技術世界一となれば、アメリカは覇権を失うことを意味する。第二次世界大戦でアメリカがドイツに勝てたのは、当時最高の暗号といわれたドイツのエニグマを解読できたことが大きい。それは英米の暗号解読技術とコンピュータ技術があったためだ。また、米ソ冷戦時代にソビエトのスパイを逮捕できたのも、アメリカの暗号解読技術が高かったおかげだ。
つまり、コンピュータの世界で後れを取ると、相手の暗号を解読できなくなり、逆に相手に自国の暗号をすべて解読される事態になってしまう。視点を変えると、この暗号技術を掌握することは軍事覇権のみにとどまらず、デジタル冷戦時代においては「金融覇権」を取ることを意味する。暗号技術で一企業が世界トップとなり、すべてを解読できるということは、ブロックチェーンという暗号から成り立つビットコインの価値がなくなってしまうことを意味する。暗号通貨の暗号が解読されてしまったら、改ざんされて通貨としての価値がなくなってしまう。グーグルの量子コンピュータ技術論文が発表された直後からビットコイン価格が急落し、IBMがそれを否定した後から反発し始めたのは、そういうわけだ。
デジタル冷戦は通貨覇権の争いへ
したがって、米中の量子コンピュータによる暗号技術競争のゴールは、暗号通貨の覇権を握ることだ。トランプ大統領の娘のイバンカがツイッターで、「暗号通貨は金本位制にすべきだ」という意味深長な言葉を発したが、これは既存の暗号通貨価値を揺さぶる牽制球だ。
1971年のニクソンショック以前のブレトンウッズ体制までは通貨は金本位制で、金という“裏付け資産”がなければ通貨は発行できなかった。その後、金本位制は廃止となり、発行母体である国の信用力がその国の通貨の裏付け資産となった。国家の信用力がない国は弱い通貨しか発行できない。信用力が弱いということは、基軸通貨の覇権争いレースに参加することすらできないということだ。アメリカが経済力ナンバー2の中国を潰したがるのは、基軸通貨という利権を手放したくないためだ。
ところが、発行母体を持たずに分散処理を行うビットコインの台頭が、通貨のコンセプトを変えた。国家という信用力を背景にしなくても、人は通貨の信用力を疑わずに利用する時代になった。暗号通貨には発行母体も裏付け資産もないにもかかわらず、人はそれを利用し、現実空間で買い物に利用できるというパラダイムシフトが起こっているのだ。金融機関出身の人間にとって、この衝撃は言い表しがたいものがある。
世界はこれまで、いろいろな仕組み債を生成し販売してきたが、格付けを取るには、まずその債券を構成している裏付け資産の価値が見られ、そこからリスクが計算される。だが、その裏付け資産すらなく、しかも発行母体すら不明な通貨が、暴騰し高値で取引されている現実に人々は当初は困惑し恐怖を感じた。その背景には、暗号で通貨を利用する人々の匿名性が担保されているため、ダークウェブ(特定のネットワークでのみアクセスできるコンテンツ)などで犯罪取引に利用されたという事情もあるが、それにしても単なるデジタルデータが通貨として人々に受け入れられ始めて、ゼロから価値を生み出して流通しているのは今までの常識では考えられない事態だ。そして、ビットコインの覇権は安いサーバーと国からの電気代補助金が出る中国が握っている。
トランプ大統領は、暗号通貨を金本位制という裏付け資産を持つ暗号通貨にしか価値が生み出せないように制限して、デジタルな暗号通貨の世界にブレトンウッズ体制を持ち込んで基軸通貨覇権を制御しようと考えていることが垣間見える。
デジタル世界の基軸通貨となるか
その一方で、量子コンピュータによる暗号技術で中国と関係の深い一企業が量子暗号通貨を発行してしまえば、もう暗号資産の世界はアメリカの手に負えなくなり、世界初の量子暗号通貨はデジタル世界の基軸通貨として君臨することになる。中国がアメリカに牙をむき始めているのは、中国元は事実上のドル本位制で、貿易で稼いだ米ドル、金融市場で調達してきた米ドルで成長したためだ。
だからこそ、アメリカは貿易制裁で中国から米ドルを取り戻そうとしている。
ところが、米中貿易戦争で中国が米ドルという基軸通貨を稼げなくなったとしても、量子コンピュータによる最強の暗号通貨が台頭すればデジタル世界で中国に基軸通貨を握らせる機会を与えることになる。
米中デジタル冷戦は、量子コンピュータをも巻き込んだ金融覇権戦争という別のステージに突入していることを、私たちは見落としてはならない。
(文=深田萌絵/ITビジネスアナリスト)