愛知県蒲郡市で、新型コロナウイルス陽性と判明し、自宅待機を要請されていたのに、「ウイルスをばらまいてやる」と市内の飲食店2軒をはしごした50代の男性の動画が「文春オンライン」で公開された。
この「コロナばらまき男」は、居酒屋とフィリピンパブを訪れており、フィリピンパブではカラオケに興じたり、ホステスと肩を組んだりしたようだ。フィリピンパブは、店内や周辺を消毒したものの、しばらくの間休業に追い込まれたため、オーナーは「これは“テロ”にほかなりません」と話している。
「コロナばらまき男」の不安と怒り
「コロナばらまき男」が、“テロ”まがいの行為に及んだのは、一体なぜなのか? 次の2つの心理が働いたように見える。
1)抱えきれない不安
2) 鬱憤晴らし
まず、自分1人では不安に耐えきれないので、誰かと共有したい、誰かに話を聞いてほしいという願望が強かったのではないか。ところが、この男性は両親と同居していて、両親が発熱や呼吸困難を訴えて入院し、感染が確認されたそうなので、そういう役割を担ってくれる家族が身近にいなかったのだろう。しかも、親身に話を聞いてくれる恋人も友人もいなかったからこそ、居酒屋とフィリピンパブに行ったわけで、それだけ孤独だったのだ。
また、やり場のない怒りを誰でもいいからぶつけたい、つまり鬱憤晴らしをしたいという気持ちも強かったと考えられる。この怒りから復讐願望が生まれ、誰でもいいから感染させて自分と同じように不幸にしてやりたいと思ったのだろう。
そもそも、自分が病気にかかっていることを知ったときに怒りを覚えるのは、共通の反応である。死に瀕している患者200人以上にインタビューした女性の精神科医、エリザベス・キューブラー・ロスによれば、病気を告知されたとき、ほとんどの人がはじめは「いや、私のことじゃない。そんなことがあるはずがない」と思ったという(『死ぬ瞬間―死とその過程について』)。
この否認は、ショッキングな知らせを聞かされたときの最初の反応であり、その衝撃をやわらげるためのものだ。しかし、やがて第一段階の否認を維持することができなくなり、「ああそうだ。私だ。間違いなんかじゃない」と思い知らされる。すると、今度は怒り、激情、妬み、憤慨などの感情が出てくる。そして、必然的に「どうして私なのか」という疑問が頭をもたげ、怒りが見当違いにあらゆる方向に向けられる。つまり、八つ当たりするわけである(同書)。
「コロナばらまき男」も、この第2段階の怒りの状態だった可能性が高い。たとえ新型コロナウイルスに感染しても、8割以上は軽症だし、致死率も低い。それでも、感染者も死者も増え続けている状況を目の当たりにして、不治の病と思い込んだのかもしれない。あるいは、入院によって生じる経済的損失が受け入れがたかったのかもしれない。当然、「なぜ自分が感染したのか。どうしてあの人じゃなかったのか」と怒りを覚えたはずだ。
飛び交うデマ
自分が感染して腹が立ったからといって、他人に感染させることを正当化できるわけではない。ただ、怒りを覚えているのは感染者だけではない。多くの日本人がやり場のない怒りを抱いているように見える。しかも、この怒りはデマの拡散にも一役買っている。
現在、さまざまなデマが飛び交っている。「あの店の店員は感染者だ」「〇〇が予防に有効」「トイレットペーパーが品薄になる。製造元が中国だから」といった類いのデマだ。 こうしたデマの影響で、その店に客が来なくなったり、ある商品が売れたり、トイレットペーパーが品切れになったりする。
本当は自粛ムードや収入の減少に不満を募らせており、政府や厚労省の対応に怒りをぶつけたいのだが、それはできない。もちろん、ウイルスに怒りをぶつけるわけにもいかない。だから、怒りの矛先を見当違いの方向に向け、デマを流して鬱憤を晴らそうとするわけである。
デマを流すことが鬱憤晴らしにつながるのは、次の2つの要因による。
1)大衆を振り回す快感
2)他人の不幸は蜜の味
デマに振り回されて不安になったり、買いだめに走ったりする大衆を見てほくそ笑む輩は、どの時代でもどんなところにもいる。他人の不幸は蜜の味と感じるからだろうが、感染者でもない人を、感染者と名指しして、その人が困る事態になれば、蜜の味はさらに増すはずだ。しかも、その影響で自分の店の売り上げが増えれば、得することになる。
現在、休業や営業時間短縮によって収入が激減している人が少なくない。そのうち経済的に困窮する人も出てくるだろう。そうなれば、強い怒りから鬱憤晴らしをしたり、やけを起こしたりする人が続出し、“テロ”まがいの行為もデマの拡散もさらに増えるのではないだろうか。
(文=片田珠美/精神科医)
参考文献
エリザベス・キューブラー・ロス『死ぬ瞬間―死とその過程について』鈴木晶訳 中公文庫