5時15分に起床して自分で弁当をつくり、バタバタと出かけていくのだ。だが、朝から雨が降っていた2008年5月19日、起床時間になっても起きてこなかった。6時ごろに母が起こしにいくと、いびきをかいて寝ていた。「よっぽど疲れているのかな」と思ったという。
●「役所の顔」の総合窓口カウンター担当に
美香さんは、大学卒業後の02年4月から、地元・宮崎県児湯郡の新富町役場の正規職員として働き始めた。
最初の配属先は税務課。相当勉強したようで、税務署の職員ではないのに、農家から頼まれて確定申告の手伝いをしたり、相談の指名を受けるようになっていた。入庁5年目の06年7月に、税務課から町民生活課(現・町民こども課)の町民生活グループに異動。「役所の顔」ともいえる総合窓口のカウンターが美香さんの席だ。
多少の残業もあったが、異動翌年の07年度に入ると状況が変わり始めた。
新富町は全電算システムの一新を決定しており、07年後半から本格的に移行作業が始まった。住基データの移行を担当したのが美香さんだ。住基データは住民サービスの根幹であるうえ、新富町は翌年度から新システムによって課税業務を行うとされていた。
だが、旧システムのデータにはミスが多かったらしい。データチェックの作業量が07年12月ごろから増加し始め、08年の美香さんの仕事は、午後から1時間半ほど在庁した1月1日に始まり、4日以降毎日夜8時まで残業している。
●過労は医者が入院を勧めるレベルに
住民の転入出が増える3月に入ると、稼働したばかりの新システムにトラブルが発生して対応に追われたほか、航空自衛隊の新田原基地があるため「自衛隊の異動の時期は、昼食が15時ごろになることもあるんです」と母が言うほどの忙しさになった。
移行作業は残業で対応するしかなかった。課長は「毎夜23〜0時まで残業していたことはわかっています」と遺族に話している。ほかの職員が20時ごろに帰っても、美香さんだけが残って作業を続けていたそうだ。
「住基のことも詳しく、旧システムと新システムのことも詳しくて、どうしても美香さんに頼っていたようです」というのが、死亡時の課長の説明だった。
土日の短時間の在庁も含めれば、美香さんは3月23日から4月11日まで休むことなく仕事にあたっていた。3月下旬に医者にかかったときは話ができないほど疲れ切っており、医師は入院を勧めたという。
変調が目に余ることから、美香さんの母は4月6日に開催された地元の畜産祭りで、面識のあった土屋良文町長に負担軽減を求めて直談判。「病院に行って点滴を打ちながらやっているので、なんとかしてください」と訴えた。
この話を聞いた美香さんはほっとしたように喜んだというが、状況はいっそう悪くなっていた。
●年度替わり、上司が全員交代、マニュアルづくり…
まず、年度末の異動で課長は1年で交代、町民生活グループの係長が2人とも退職した。産休中の同僚の代わりに配置されていた臨時職員も、別の臨時職員に代わった。
また、児童手当などを算定するために旧システムも継続使用しなければならないことが判明し、住民データを新旧両システムに入力する事態が生じていた。
加えて、地方自治法の改正により、5月1日から戸籍関係の窓口では本人確認が厳格化されることが決まっていたため、制度に詳しかった美香さんにマニュアルづくりが任された。ちなみに、美香さんがこの間一生懸命やってきたのは、税務作業が新システムでなければ処理できないとされていたからだが、4月下旬ごろ、旧システムでも作業が可能であることが判明した。
この間、負荷軽減を求めた母の訴えは放置されたらしく、遺族の聞き取りに町長は、「(美香さんの上司である)課長には言っていなかった」と答えたという。