漁港で拾った魚を食べていた永山則夫
昭和43(1968)年に、東京、京都、名古屋、函館で連続射殺事件を起こした永山則夫。その半生が映画化され、獄中で彼が書いた小説『木橋(きはし)』が新日本文学賞を受賞したこともあり、死刑執行から20年たった今でも、その名を記憶している人は多いだろう。
八木澤氏は、永山の生まれ故郷である北海道の網走に足を向ける。リンゴ剪定士であった永山の父親をその地に呼び寄せた男性に話を聞いている。
「永山のお父さんは、リンゴ剪定士としてかなり優秀な人だったようです。それゆえ、網走に招かれた。しかし、もし父が網走に招かれることがなければ、つまり永山が網走で生活することがなければ、彼にはまた違った人生があったかもしれません。
永山のお父さんは、戦争に召集されます。あの時代、男はほとんどみんな兵隊に取られていって、『人を殺めなければいけない』と強制されるわけですよね。終戦でお父さんは戻ってくるのですが、戦争の影響もあったでしょうし、当地ですでにリンゴ栽培が軌道に乗ったために剪定士が必要とされなくなったことで、酒と博打に溺れていくんです。
ある日、耐えられなくなった母親が家を出ていってしまう。幼い永山は、漁港で拾った魚を食べて命をつなぐといった貧困のどん底を味わうことになった。『土地と時代がからみ合って、ひとりの人間は形成されていくんだな』と思いますね」(同)
出ていった母親が青森の板柳にいることを福祉事務所が突き止め、永山はその地で暮らすことになった。八木澤氏は板柳に向かう。
永山が暮らした長屋は取り壊されていたが、子どもの頃の永山を知る理容店主から話を聞き、同じ造りであったであろう長屋を訪ね、貧しかったであろう永山の生活に思いを馳せている。
「秋葉原連続殺傷」の加藤智大に感じた“傲慢さ”
平成20(2008)年に秋葉原連続無差別殺傷事件を起こした加藤智大は、永山と同じ青森の出身だ。巡礼は、加藤の実家があった土地へと続く。しかし、永山と違い、両親が銀行員であるその家には貧困の欠片もうかがえない。
八木澤氏の巡礼は、現場を巡るだけではない。服役後の殺人者にも目を向ける。
「時代によって、犯罪者の気質がガラッと変わることがあるんです。永山は小説を書きながら、文学を通じて自分自身に向かい合おうとしていました。
昭和38(1963)年に『吉展ちゃん誘拐殺人事件』を起こした小原保は、福島の出身です。貧しい東北から東京に人が流れていく時代でした。彼も、刑務所に入ってから自分自身の罪と向き合い、『福島誠一』という名前で罪を償う短歌を残しています。
しかし、加藤智大には、そういう気持ちがまったく見えてこない。手記もすべて読みましたが、『自分は優秀な人間で、お前らには俺の気持ちなどわからない』という傲慢さを感じました。時代ですべてを語ることができるとは思いませんが、昔と今の犯罪者の間には、ある種の断絶を感じます」(同)