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鬼塚眞子「目を背けてはいけないお金のはなし」

報道されない真実…東日本大震災の直後、生命保険会社は被災地で何をやっていたのか?

文=鬼塚眞子/一般社団法人日本保険ジャーナリスト協会代表、一般社団法人介護相続コンシェルジュ協会代表
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ジブラルタ生命の小原和子さん

 2011年3月の東日本大震災後には、行政、自衛隊、警察、消防署、医療・製薬関係者、建築関係者など、さまざまな業種や団体の方が寝食を忘れて復興に尽力し、国内のみならず世界中からボランティアはじめ多くの支援と真心が被災地に届けられました。しかし、生命保険業界全体で1599億3445万円(平成25年3月末)もの莫大な保険金を支払ってはいるものの、保険業界関係者が、その時どんな行動を取り、何を考えていたのか、ほとんど報道されていません。ジブラルタ生命の小原和子さんは、津波から九死に一生を得た後は、保険金支払いに奔走しました。小原さんにとってのこの10年間をお伝えします。

「釜石の奇跡」をご存じでしょうか? 東日本大震災で壊滅した岩手県釜石市鵜住居(うのすまい)町内にある釜石東中学校は、海からほど近い場所に建築され、4階建て校舎の3階まで津波被害に遭いました。生徒は、地震直後、何も持たずにジャージ姿で高台まで走り抜き、全員が無事だったことから「釜石の奇跡」と呼ばれています。

 釜石市に住む小原さんは、震災が起きた日の午後3時に鵜住居に住むお客様を、午後4時には同じく町が壊滅した大槌(おおつち)町内のお客様を訪問する予定で、その後は30キロ離れている当時勤務していた宮古営業所に戻る予定になっていました。

 2時44分頃に突然、カーラジオから「緊急地震速報」が流れました。「ともかく避難しなければ」と、ハンドルを切った直後、大きな揺れに襲われました。ただならぬ事態に「津波は来る」と直感した小原さんは、いざとなれば屋上に避難させてもらおうと、鵜住居内の高いビルを目指して車を走らせ、駐車しました。

 筆者は釜石東中学校の当時の学生からも、「てんでんこ」と言い合いながら逃げたと聞きましたが、小原さんもこうした行動に出たのは、三陸地方で語り継がれていた「津波てんでんこ」によるものです。「てんでんこ」とは、三陸の方言の「各人・めいめい」という意味で、「津波てんでんこ」とは津波の時は家族や周囲のことも考えず、各自バラバラに逃げろという意味です。

「子供の時から、『津波の時はてんでんこだぞ』と言われてきたので、地震が発生したら、『ともかく逃げよう』と思っていました」

 鵜住居で高いビルといっても、せいぜい3階建てです。それでも高いビルに到着してほっとした小原さんがシートベルトを外そうとした瞬間、見知らぬドライバーの方が「逃げろ! ここじゃだめだ。すでに津波は海岸沿いに到着し、車が浮いている。俺も逃げてきた、早く!」と鬼気迫る形相で訴えるのです。

 すぐに高台を目指し、車を走らせている途中にコンビニを見付け、「津波が来たら、物流もストップするだろう」と思い、水や食料、電池などを購入、猛ダッシュで発進しました。このことが小原さんの運命を大きく変えることになるのでした。

 地震発生から20分ぐらいが経ったでしょうか。バリバリバリと突然の大音響に驚くと、横を走っている列車に流された船が激突し、崩壊していきます。みるみるうちに津波が押し寄せ、あっという間に“周囲の景色は海”に変わってしまいました。

「もし途中でコンビニに寄らなければ、津波にのまれていました。『10秒早かったら』と、ぞっとしました。気がつけば、海の中に孤立したような状態に陥り、もう天に命を任せるしかありませんでした。津波が引く時も、なぜ私の車を飲み込まなかったのかは運命だったとしかいいようがありません。周囲はいろんな物が流されたり、押し倒されたりして、これ以上、前に進むことはできなくなっていました。私の後ろには路線バスが一台停まっていて、バスと私は立ち往生をすることになってしまったのです」

 小原さんは、バスのドライバーさんから「不安だろうから」と招かれ、バスの中で一晩過ごすことになりました。どうやって歩いてきたのか、数人の男性がバスの横を下っていることに気がつきました。そのなかの一人に、2カ月前にお子様が生まれたお客様がいました。その後に待つ悲劇を知らずに「あの人も無事で良かった。ご自宅の場所は、津波の心配はないだろうけど、早くお子様と奥さまの待つお家に無事に着きますように」と祈りながら、背中を見送ったのです。

 携帯電話も通じず、心細いまま朝になりました。幸いだったのは、ガソリンを満タンにしていたことでしたが、それでも勤務先の宮古の営業所まで戻るのは、もはや困難と判断し、釜石市内にある自宅まで大槌経由で戻ろうと、車を発車させました。しかし、距離にしてわずか1キロにも満たない大槌につながるトンネルの入り口でストップしてしまいました。トンネルの近くに1軒の家を見つけ、トイレはそこでお借りすることになりました。コンビニで買った食料が小原さんの命をつないできましたが、ほどなく底を突きます。ここから時間にして10分程度の自宅にも、いつ帰れるかわかりません。例えようのない恐怖に包まれながら、ガソリン節約のために暖房を切り、寒さに震えながら2日目の夜は過ぎていきました。

 3日目に大槌で発生した山火事が迫ってきました。「ともかくここから脱出することだ」と車に乗り込み、いつもなら目と鼻の先にある自宅も、遠野市経由で大きく迂回しながら目指すしかありません。遠野市は内陸部で津波の影響を受けていないと判断したからです。

震災直後は、道路を普通に車で走ることはできない状況でした。当たり前だった日々を本当にありがたく思いました。途中で立ち寄った友人から、鵜住居も大槌も壊滅、電気もガスも水道も電話もライフラインのすべてが不通で、道路も寸断され、外部から人が入れない孤立状態に陥っていることを知らされました。自宅も家族もどうなっているのか、最悪のことも覚悟していましたので、のちに避難所で再会したときは、さすがに涙を堪えることができませんでした」

「何としても遠野へ」と、絶望のなかの一筋の希望を胸に、迂回を続け、ようやく遠野にたどり着くことができました。開いているスーパーを見付け、飛び込むと、スタッフが携帯で話しているのです。「携帯使えるの?」と驚きながらスタッフに駆けより、借りた携帯で関東に住む親族に連絡を取りました。親族も小原さんや小原さんの家族に、ずっと連絡を取ってくれていたのですが、まったくつながらず、不安のピークに達していたといいます。

 宮古の被害も甚大だと親族から知らされ、宮古の営業所も津波被害に遭っていることを察知しました。そこで「本社に『小原和子は無事です。生きています』と連絡をするように」と親族に頼みました。

 こうしてジブラルタ生命の被災地の社員のなかで、最後まで安否確認ができなかった小原さんの無事が、親族を経由して本社に届き、本社は歓喜に沸いたといいます。

朝から晩まで避難所を回る

 遠野を経由して、自宅まであと5キロというところまでなんとかたどり着きました。しかし、道路は瓦礫の山でこれ以上、車での移動は不可能です。知人の家に車を置かせてもらい、そこからは三陸鉄道の線路を歩いて自宅を目指すことにしました。

 三陸鉄道も津波で線路や駅舎が壊滅して、途中で線路が寸断されたり、余震が続くなか、足のすくむ鉄橋を渡ったり、停電で足元も見えない真っ黒なトンネルを知らない人の上着の裾を掴みながら歩き、夢にまで見た自宅に着いたのは、震災4日目の朝でした。

「そこには、この3日間の恐怖や不安はなんだったんだろうと思うぐらい、別世界が広がっていました」。山間部にある自宅一帯は、津波被害をまったく受けていないため、犬の散歩をする人、井戸端会議をする人と、平和な世界が広がっていました。それが日常の光景だったことを思い出させるには、あまりにもギャップがあり過ぎました。小原さんの自宅と家族の無事も確認できました。

 やがて、小原さんの無事を知って自宅を訪問した営業所長から、勤務していた宮古営業所は水没し、通信手段もやられ、窓ガラスもあちこち割れて、完全に使用不能のビルと化したこと、同僚は無事だったものの、元の同僚が亡くなったことを知らされました。

 小原さんは釜石市と大槌町の小学校から高校までの約50校を担当していました。同社では成績優秀者として知られている小原さんには、学校関係者以外に、彼らから紹介されたお客様もいて、その数は1000件を優に超えます。津波の被害に遭っていない学校もありましたが、釜石東中学校のように学校が全壊している校舎も少なくありません。

「津波の被害に遭っていない学校の体育館は避難所になっているほか、全壊した複数の学校の臨時職員室ができるほどでした。朝から晩まで避難所を回って、安否が確認できない人は掲示板で避難先を確認したり、避難所の方に聞き回る毎日でした」

 それは同時に、小原さんにとって辛い現実と向き合う日々の始まりでした。

(文=鬼塚眞子/一般社団法人日本保険ジャーナリスト協会代表、一般社団法人介護相続コンシェルジュ協会代表)

●小原和子さん

釜石市出身。昭和25年5月15日生まれ。1981年5月、協栄生命に入社。2011年震災当時はジブラルタ生命の宮古営業所の所属。2015年、2017年はMDRT成績資格会員。

鬼塚眞子/ジャーナリスト、一般社団法人介護相続コンシェルジュ協会代表

鬼塚眞子/ジャーナリスト、一般社団法人介護相続コンシェルジュ協会代表

出版社勤務後、出産を機に専業主婦に。10年間のブランク後、保険会社のカスタマーサービス職員になるも、両足のケガを機に退職。業界紙の記者に転職。その後、保険ジャーナリスト・ファイナンシャルプランナーとして独立。両親の遠距離介護をきっかけに(社)介護相続コンシェルジュを設立。企業の従業員の生活や人生にかかるセミナーや相談業務を担当。テレビ・ラジオ・新聞・雑誌などで活躍
介護相続コンシェルジュ協会HP

Twitter:@kscegao

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