「満員の通勤電車でベビーカーは邪魔かどうか」。そんな話題がインターネット上で取り上げられると、比較的炎上しやすい。実際にベビーカーを押して子どもを連れている人からの反発や、逆に高齢層の子ども連れへの嫌悪感など、賛否両論が巻き起こり収拾がつかなくなる。
今の日本において、子どもは邪魔なのか。子どもは、社会の構成員として不要なのか。そもそも少子高齢化が進む日本では、子どもというのはマイノリティである。世代別人口構成では中年層と老年層が大きな位置を占め、子どもの絶対数が少ない。マイノリティに厳しい日本において、子どもに対するまなざしが冷たいのは、ある意味ありうることではある。
「妊娠嫌悪社会」はなぜ生まれたか
筆者の暮らす東京都調布市では、街中で妊娠している女性がよく歩いている。ベビーカーを押して歩いている人も多い。子どもも多く、人口増が進んでいるエリアだ。
一方で、日本の大半のエリアはそうではない。人口減に苦しみ、高齢化が進んでいる。企業も「人材が足りない」とはいうものの、本音は「若い(体育会系の既存社会の価値観に適合した)男が欲しい」というケースも多く、女性の活用や就職氷河期世代の活用などに真摯に取り組もうとはしない。
「女性嫌悪」(ミソジニー)という言葉がある。女が嫌い、という意味ではない。女性性や女性らしさ、女性の自立心に対して嫌悪感をいだき、男性の性的・支配的従属物に置こうという考え方だ。
それと同様な傾向が、女性の妊娠に対しても存在する。妊娠している女性が嫌い、ということではなく、女性が妊娠により産休などを取得することを企業が嫌がり、女性が妊娠したら雇用契約を解除しようとしたり、邪魔者扱いしたりという風潮が、日本の社会にはある。そういった状況を「妊娠嫌悪社会」と呼びたい。
なぜ妊娠が歓迎されない社会になったのか
妊娠が歓迎されない社会になった背景には、育児環境の貧しさがある。「子どもは家庭で育てるべきだ」という考えが自民党関係者に多く、そういった考えが支配的な社会において、子育て環境の整備はなされず、子育て世代のための雇用環境も整備されない。保育園不足などはその典型例だ。待機児童が多いエリアが都市部にはあり、保育園の問題が、夫婦が子どもをつくるかどうかの判断材料になることさえある。