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「北朝鮮は地上の楽園」…日本最大のタブー、在日朝鮮人の帰還事業の60年目の証言

構成=長井雄一朗/ライター
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 当時、私は金日成主義の中毒症状になっていました。夫の李進煕(イ・ジンヒ)は「広開土王陵碑文」の拓本を綿密に比較検討して、日本の古代史像の再検討を提起すべく、吉川弘文館から『広開土王陵碑の研究』を出版し、皇国史観の根強い日本の古代史研究に一石を投じた人です。

 1950年末から1970年代にかけて、総連内では金日成の主体思想が唯一思想となり、夫は連日の「思想総括」のため苦しんでいました。その原因のひとつが、私との結婚でした。私の父が北朝鮮への帰国事業を批判し、『楽園の夢破れて』を出版したからです。間もなく私たちは敵対する関係となり、父とは10年という長い間、親子の断絶状態が続きます。

 夫は、勤務していた朝鮮大学校から毎日のように「思想統括」を強いられていました。私と夫は話し合った末に「北朝鮮に帰ろう」との決断を下しますが、それが弟を通して父に伝わります。父は「もし帰るのであれば割腹自殺をする」と絶叫し、私たち夫婦は帰国を断念しました。

 1968年頃になると、大学内は「文化大革命」もどきの嵐が吹き荒れ、同僚同士の間にも疑心暗鬼の空気が蔓延していました。その上、学生が先生を監視し、講義などで少しでも思想的な「落ち度」があれば上部に通報していたようで、教師と学生たちとの信頼関係さえも崩れ去り、もはや教育の場ではなくなっていました。夫は日増しに食も細くなっていき、苦悩の日々が続いていきました。安定剤なくしては日常が送れないほどでした。

 父との絶縁から10年が過ぎた1971年4月、入学式を終えた数日後、ついに大学を辞める決断をします。二十数年間、民族教育に青春を燃やしてきたにもかかわらず、自分の生き方に照らして北朝鮮の政治体制や大学のあり方に追随できなくなったのです。その後、私たちは総連とは一切関係を持たなくなりました。

 1972年に高松塚古墳が発見されて古代史ブームが起こり、夫は日本の大学で教鞭を執りながら、朝鮮と日本との間の複雑によじれた関係を解きほぐし、相互間の理解と連帯を図るためのひとつの橋を架けていきたいと、「季刊三千里」と「季刊青丘」を発刊しました。

 在日一世の編集委員、金達寿、姜在彦、金石範、李哲、尹学準、若い頃の姜尚中たち当時の在日の知識人を総動員して『季刊三千里』を50号まで、『季刊青丘』を25号まで、夫は編集長としての重責を担ったのです。当時、『季刊三千里』は多くの大学で副教材として採用されました。

 一方、私は1991年1月25日に同人誌『鳳仙花』を創刊しました。私は在日女性たちの生活記録――日々の暮らしのなかで感じる喜びや悲しみなどを語り合うマダンが必要だと思うようになったのです。創刊当時、在日女性たちが発行する同人誌は皆無でした。『鳳仙花』は、文字を持たないオモニたちの過酷な人生を親の背中を見て育った二世たちが代わってつづった「身世打鈴」が多くの誌面を占めていました。2013年27号をもって休刊としました。

『鳳仙花』は不充分とはいえ、時代の証言集としての使命を果たしたのでした。何よりも、在日女性による女性の同人誌の先駆的役割を果たしたことの意義は大きいと思います。そして、記録することの大切さを27冊の『鳳仙花』が如実に語っていると思います。

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