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「北朝鮮は地上の楽園」…日本最大のタブー、在日朝鮮人の帰還事業の60年目の証言

構成=長井雄一朗/ライター
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「一生を棒に振った」と抗議する在日の青年

 ここで、父の話をいたします。1960年8月、日朝協会に入会していた父は八・一五朝鮮解放十五周年慶祝使節団の一員として北朝鮮に招待されます。当時、在日コリアンの事業としてはパチンコやレストランなどがありましたが、父はパチンコなど多角的な事業で成功していました。1951年のサンフランシスコ講和条約締結により、在日コリアンは日本人としての諸権利を喪失し、銀行からの融資を受けられないケースも多くありました。

 しかし、父は同条約締結の直前に日本人の関さんとの養子縁組により、日本国籍を取得していました。私も高校時代は「関文子」でした。当時は養子縁組により日本への帰化が可能だったようです。父は、日本国籍を保有する朝鮮人として北朝鮮を訪問しました。当時、父は日本国籍保有者でありつつも朝鮮総連の要職に就いていました。

 使節団一行には、ベストセラーの『38度線の北』を執筆した歴史学者の寺尾五郎氏もいました。ある日、視察団が列車で移動していると、日本から帰国した青年たちが寺尾氏に詰め寄り、「あなたの本を読んで、素晴らしい地上の楽園を思い描いて北朝鮮に帰国した。真相はまったく逆ではないか。一生を棒に振ってしまった僕たちをどうしてくれるんだ」と抗議している場面を目撃したそうです。

 父はといえば、地元の岡山から帰国した友人たちとの面会も許されず、平壌の街も自由に散策できず、「北朝鮮はこんなにも閉鎖社会なのか」と嘆きました。そして、帰国協力会の幹事のひとりであったにもかかわらず、「真実を隠して帰国させてはならない」と北の施政を視察しながら悩み続けたそうです。

危険だった「北朝鮮の実態を告白」

 父は日本に戻ってから、北朝鮮の実情を総連側に訴えます。朝鮮戦争が終わってわずか7年、廃墟と化した国土の復興と再建の真っ只中で、ゆとりなどあるはずがない。帰国希望者には、北の現実、物資のない厳しい現実を受け止め、一本の釘や古着でも捨てないで大切に持ち帰り、現状をありのままに知らせるべきではないか。ユメユメ楽園に還るなどという甘い考えを捨て、厳しいけれども社会主義建設に身を捧げることを覚悟した人々が帰るべきだと、真実を隠して帰国させてはならないと、繰り返し訴え続けたのです。

 しかし、「地上の楽園」へと熱病にかかったように沸き立っていた頃なので、父の提言は帰国事業への妨害だと総連から「反動」という烙印まで押され、激しく非難されることになりました。北に骨を埋めたいとまで願っていた父でしたが、帰国をあきらめるばかりか、1962年には北の実態を告発した『楽園の夢破れて』を出版し、総連と対決することになるのです。

『楽園の夢破れて』が出版された後、父はあらゆる誹謗中傷に耐えながらも、真実を覆い隠している帰国事業は間違っていると、徒手空拳で孤独な闘いを続けていたのです。「もしこの事実に目を覆い、従来通りの北朝鮮礼賛、帰国促進を続けていけば、恐るべき人道上の誤りを冒す恐れがある」と父は訴え続けました。今から半世紀以上も前のことです。

 何度も父の講演会が妨害され、騒然たる雰囲気となり中止せざるを得なかったことなど、身の危険と隣り合わせの闘いだったと、のちに知りました。もし拉致されたときには青酸カリを、銃は護身用にと、考えていたほどでしたから。

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