NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、重要な役どころを担っているのが伊豆の有力豪族・伊東氏だ。
伊豆に流された源頼朝(演:大泉洋)は、「伊東の爺様」こと伊東祐親(いとう・すけちか/演:浅野和之)の監視下にあったが、祐親が大番役(おおばんやく)で上洛している間に、娘の八重(演:新垣結衣)と懇ろになり、子ども・千鶴丸(せんつるまる)までもうけてしまう。祐親は伊豆に戻ってそれを知り、激怒。千鶴丸を殺して、八重を江間小次郎(次郎ともいう。演:芹澤興人)に再縁させる。
伊東家は藤原鎌足を祖とする藤原南家の末裔で、伊豆の広域を支配したとされる
伊東氏は藤原氏の子孫にあたるのだが、かなりの傍流である。
藤原家の祖・鎌足(かまたり)の孫に四兄弟がおり、上から武智麻呂(むちまろ/南家【なんけ】)、房前(ふささき/北家【ほっけ】)、宇合(うまかい/式家)、麻呂(まろ/京家)という。藤原道長で有名な摂関家は北家の流れで、伊東氏は南家の流れにあたる。
武智麻呂のかなり子孫に藤原為憲(ためのり)という人物がおり、木工助(もくのすけ)、遠江権守(とおとうみごんのかみ)を歴任。「木工助の藤原」だから工藤を名乗ったという伝説がある。その曾孫・維職(これもと)が伊豆国押領使になって、子孫は伊豆に土着し、一大勢力になったらしい。
伊東の一族には狩野(かのう)、河津(かわづ)、宇佐美(うさみ)等を名乗る家がある。伊豆国府の南側に位置する狩野郷から、東岸の伊東、さらに南にくだった河津まで、広範囲に勢力を誇っていたことがわかる。
小栗旬演じる北条義時が恋心を抱いていた、新垣結衣演じる八重は伊東祐親の4姉妹
伊東祐親には少なくとも4人の娘がいたらしい。
・娘1 三浦義澄(演:佐藤B作)の妻、三浦義村(演:山本耕史)の母
・娘2 工藤祐経(演:坪倉由幸)の妻
・娘3 八重 (演:新垣結衣)
・娘4 北条時政(演:坂東彌十郎)の妻、北条義時(演:小栗旬)の母
『鎌倉殿の13人』では、小栗旬演じる北条義時が八重に恋心を抱いているという設定なのだが、実は叔母さんのようなのだ。叔母さんに恋心をねぇ……。
伊東祐親と⼯藤祐経…2人の因縁が、“日本三大仇討ち”のひとつ『曽我物語』を生む
もうひとりの叔母が嫁いだ工藤祐経(くどう・すけつね)――『鎌倉殿の13人』第1回(1月9日放送)で、汚らしい格好をして北条時政邸に駆け込んできた御仁――は祐親の親族で、かれをめぐって後に騒動が勃発する(曽我物語)。
2人は親族には違いないのだが、その具体的な関係についてはいくつかの説がある。まぁそこをはしょって説明すると、祐親・祐経の先祖が伊豆の東岸に領地をもっていて、祐経の父に伊東、祐親に河津(静岡県賀茂郡河津町)の地を与えた。祐親は伊東の地が欲しかったらしく、この配分に不満があったらしい。工藤祐経の父が早くに死去すると、祐経の後見人となって自分の娘と結婚させた。そして、祐経が上京している間に娘を離縁させ、祐経を追い出して伊東の地を横領したという。だから、祐経は汚らしい格好をして北条時政邸に駆け込んできたのだ。
そして、祐経は所領と妻を奪われたことで祐親を強く恨み、祐親の暗殺をもくろむ。『鎌倉殿の13人』の第2回でも祐親を襲撃しては失敗し、逃げ帰っていたのだが、後日ふたたび襲撃し、祐親は難を免れるが、側にいた祐親の子・河津祐通(かわづ・すけみち/祐泰ともいう)が殺されてしまう。
殺された祐通の妻は、2人の子を抱えて曽我祐信(そが・すけのぶ)に再縁した。
この兄弟(曽我祐成・時致/すけなり・ときむね)が成長して父のカタキを討つのが、“日本三大仇討ち”(あだうち)のひとつに数えられる、かの有名な『曾我兄弟』『曽我物語』である。
2人は、頼朝が主催した富士野の巻き狩りで仇討ちを決行した。兄・祐成はその場で仁田忠常(演:高岸宏行)に討たれたが、弟・時致が頼朝の命を狙ったため、この仇討ちの背後には、北条時政による頼朝暗殺の陰謀があったとの説がある。時致の烏帽子親(えぼしおや/元服の時に立ち会う庇護者)が北条時政だったからだ。これが『鎌倉殿の13人』でどのように描かれるのか、非常に楽しみだ。
伊東家は鎌倉幕府の御家人に…傍流の工藤氏は東北に一大勢力を築く
上記の通り北条邸を頼ってきた工藤祐経は、厄介払いされるような形で頼朝の身辺警護を命じられる。そのため、頼朝が幕府を開くと、祐経の子孫は厚遇された。
子・伊東祐時(すけとき)が伊東を名乗って鎌倉幕府の御家人となり、日向(宮崎県)の地頭となって、その子孫は戦国時代も生きながらえ、日向飫肥(ひゅうが・おび/宮崎県日南市)藩主となった。その支流が織田信長に仕え、子孫は備中岡田(びっちゅう・おかだ/岡山県倉敷市)藩主になっている。
また伊東家一族からは、二階堂氏、天野氏が出ている。紙幅の都合で系図には書いていないが、毛利一族として有名な吉川(きっかわ)氏、今川家臣から徳川家康に転仕し、のちに和泉岸和田(大阪府岸和田市)藩主となった岡部氏もこの一族である。
傍流の工藤景任(かげとう)の子孫は陸奥国岩手郡(岩手県)の地頭となり、東北に大きな勢力を誇った。今でも青森県では工藤姓が多い(工藤静香や工藤夕貴の父も確か青森県出身だったはず)。奥州工藤家の祖を工藤祐経の孫とする説もあるが、おそらく偽系図であろう。
最近では見かけないが、明治・大正の頃までは、伊東といえば、「祐◯」という名前の方が多かった。鎌倉時代以来の伝統を伝えていたのである。また、伊東・工藤姓の多くは「庵木瓜」(いおりもっこう)という家紋を使っているが、これも鎌倉時代以来の変わっていない。あまりメジャーではないけれど、それゆえに伝統を大事にする家系なのであろう。
(文=菊地浩之)