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信長は実力主義という大ウソ…“残念な織田家臣”佐久間信盛はなぜ出世しなぜ左遷されたか

文=菊地浩之
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『長篠合戦図屏風』(徳川美術館蔵)に描かれた佐久間信盛。主君の織田信長に高野山へ追放されるまでの約30年間、織田氏家臣団の筆頭家老として家中を率いた。(画像はWikipediaより)

信長への“言い訳”で不興を買うも出世し、本願寺攻めの総大将を任された佐久間信盛

 織田信長の家臣のなかで最も残念な人物といえば、佐久間信盛(さくま・のぶもり)をおいてほかにないだろう。現在放送中のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、金子ノブアキが演じている。

 佐久間信盛は尾張国愛知郡山崎(名古屋市南区山崎町)に生まれ、桶狭間の合戦後は三河方面の侵攻を任された。信長が足利義昭を奉じて上洛し、元亀元(1570)年5月に信長が近江を分封支配すると、永原城(滋賀県野洲市永原)の城主となった。

 天正元(1573)年8月の朝倉攻めで、朝倉軍の退却を見過ごした家臣たちを信長が叱責した際、信盛が「そうはおっしゃいましても、我々ほどの家臣はお持ちになれますまい」と弁明し、不興を買ったことは有名である。にもかかわらず、信盛は信長に重用され、遠江の高天神(たかてんじん)城攻め、三河の長篠の合戦、越前攻めなどに従軍した。

 天正4(1576)年5月、信盛は本願寺攻めの総大将として、天王寺(てんのうじ)砦に置かれ、尾張、三河、近江、大和、河内、和泉、紀伊7カ国の与力を附けられた(「与力」というのはこの場合、信長の直臣なのだが、軍事指揮下は佐久間の下で働く武士のことをいう)。信長に代わって大軍を率い、特定の地域を攻略する「方面軍司令官」として抜擢されたのだ。当時の織田家中では、柴田勝家に次いでナンバーツーの位置に据えられたといえよう。

 しかし、消極的な戦いぶりから信長の不興を買い、天正8(1580)年8月、本願寺との和睦が成立すると、19カ条からなる折檻状を突きつけられ、信盛は嫡男・佐久間信栄(のぶまさ/または、のぶひで)と共に高野山へ追放。翌天正9年7月に死去した。

佐久間信盛は、信長家臣団のなかでなぜナンバーツーまで出世できたのか?

 佐久間信盛の追放は、満足な活躍を果たせないと重臣ですら追放される、信長の「実力重視」の人材登用を物語る一例としてしばしば挙げられる。

 だが、ちょっと待ってほしい。どうして、そんな残念な人物がナンバーツーにまで上り詰められたのか。巷間で褒めそやすように、信長の人材登用は本当に実力重視だったのだろうか。

 結論からいってしまうと、佐久間信盛はいいとこのボンボンだったから出世できたのだ。

 信長から見ると能力的には「残念」だったけれども、我慢して使っていた。そして、とうとう我慢できなくなったから、あれこれ理由を付けて解雇したといったところだろう。

『新修 名古屋市史 2』では、室町時代における名古屋市内の有力武士として、(1)那古野(なごや)の今川氏、(2)熱田の千秋(せんしゅう)氏、(3)御器所(ごきそ/名古屋市昭和区御器所)の佐久間氏の3家を挙げている。

 佐久間家は鎌倉幕府の御家人の系譜を引き、独自に家臣団を抱え、尾張でも屈指の国人領主だった。佐久間家は尾張で織田家と遜色のない(むしろそれ以上の)有力者の家柄で、若き日の信長軍の主力を成していた可能性がある。桶狭間の合戦の時に信長はいくつかの砦を作って家臣に守らせたが、単独でひとつの砦を守ったのは織田一族と佐久間一族だけだった。信盛はその佐久間一族なのだ。

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現在放送中のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、金子ノブアキが佐久間信盛を演じており、寡黙な男として描かれている。(画像はNHK公式サイトより)

佐久間信盛による信長への諫言は、“KY”ではなく家臣の思いを代弁しただけ?

 戦国武将の家臣団をサラリーマン社会の出世競争にたとえる向きもあるが、実際はゼネコンと協力会社の関係に近いのではないか。

 たとえば、織田建設に月1000人の仕事が舞い込んだとしよう。数百人の動員能力がある佐久間組と、数人の丹羽設計事務所、家族経営の木下建設では発言力が違う。個人の力量では、技術に秀でた丹羽長秀、営業折衝と日雇い労務にたけた木下藤吉郎が勝るとも、二世のボンボンでおバカな佐久間信盛を重用せざるを得なかったに違いない(柴田勝家は、妹が佐久間一族に嫁いでいるので、二世のボンボンと同一階層の出身と思われる)。

 特に、信長の青年期、まだ兵力が充実していなかった頃は、佐久間一族にアタマが上がらなかっただろう。

 工期が遅れて信長が激怒した時、佐久間が「アナタみたいなモーレツ社長に必死にしがみついてきた我々の努力・優秀さも買ってくださいよ」と諫言して不興を買ったのも、協力会社を代表する立場だったからであって、決してKY(空気読めない)なわけではないのである。おそらく、丹羽・木下も「佐久間さんってアタマはよくないけど、あぁいうところで言ってくれて、ありがたいよなぁ」って言っていたに違いない。

信長は本当に実力主義者なのか? 柴田・佐久間をトップとする序列を崩さず

 佐久間一族にアタマの上がらなかった信長が佐久間信盛を追放したのは、もはや尾張時代の関係ではないんだよ――ということなのだが、その気があれば、もっと早い段階で信盛を左遷・更迭できたのではなかろうか。

 信長は南尾張の守護代・清須(きよす)織田家の三奉行の家柄である。清須織田家を滅ぼして南尾張を統一した後、北尾張の守護代・岩倉織田家、美濃斎藤家、近江六角家を駆逐して、その旧臣を家臣団に組み込み、数カ国を治める大大名に成長した。

 信長が真の実力主義者であれば、(1)岩倉織田家・美濃斎藤家の旧臣から優秀な人材を登用する。(2)個人的な力量に勝るに丹羽・木下の下に岩倉織田家・美濃斎藤家の旧臣を与力として附け、柴⽥・佐久間より上に持ってくるか、同列にするであろう。

 ところが、信長はそうはしなかった。

 柴田・佐久間をトップとする序列を守りながら、丹羽・木下など子飼いの武将に与力を附け、一軍の将とすべく育成していった。

 また、岩倉織田家・美濃斎藤家の旧臣で一国を任せられるような武将は生まれなかった。美濃斎藤家で比較的大身である稲葉一鉄は、一時期、柴田勝家の与力とされていたらしい。稲葉クラスがその扱いなのだから、ほかは推して知るべしであろう。その多くは、尾張時代からの子飼いの武将の与力として再編されてしまったのだ。

信長の父・信秀は最初から尾張全体を治めたわけではなく、柴田勝家も代々織田家に仕えていたわけではない

麒麟がくる』で、吉田鋼太郎演じる松永久秀が面白いことを言っている。

「あの無能な柴田勝家が総大将になれたのは、織田家に代々続く重臣の家柄だからだ。(中略)信長殿は家柄筋目にこだわらず、よう働く者をお取り立てになるという評判じゃ。だが実は違う」と。

 その認識は半分合っているが、半分間違っている。

 先に述べたように、信長の人材登用は意外に実力主義ではない。そして、柴田勝家は父祖の代から信長の家に仕えた家柄ではない。

 そもそも、尾張の武士がすべて織田家累代の家臣だったわけではない。

 信長の家は父・織田信秀の代に大きく飛躍したのだが、信秀はもともと勝幡(しょばた)という尾張西端の生まれである。信秀は天文7(1538)年頃に那古野城の今川を追放して移り住み、天文15(1546)年頃には那古野城に信長を置き、自身は古渡(ふるわたり)城へ移り、さらに天文18(1549)年頃に末盛城へと移り住んだ。

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織田家の遷移。信長の父・信秀はもともと勝幡の生まれで、そこからどんどん東側を制圧していったと考えられる。

 その遷移を見る限り、織田家はもともと庄内川(しょうないがわ)の西岸までが勢力範囲で、どんどん東側を制圧していったと考えるのが常識的ではないか。那古野の今川を追放した後、古渡(千秋の拠点・熱田近く)、末盛(佐久間の御器所近く)に移転しているのは、有力者を傘下に収めていく過程を表しているといえなくもない。

 柴田勝家は、末盛城のさらに東に位置する下社(しもやしろ)村の出身なので、尾張西端の勝幡を拠点とした信長の実家に代々仕えていたとは思えない。

明智光秀が「惟任」と改姓させられたのは、実は土岐家の流れを汲む名門ではなかったから?

『麒麟がくる』では触れられなかったが、天正3(1575)年7月3日に明智十兵衛光秀は信長から惟任(これとう)の苗字と日向守(ひゅうがのかみ)の官途を与えられた。

 同様に信長は、丹羽長秀を惟住(これずみ)、塙直政を原田、簗田広正(やなだ・ひろまさ)を別喜(戸次/べっき)と改姓させた。これらはいずれも九州の名族といわれている。そして、かれらに共通項がある。天正3年時点で一国を治めている(もしくは治めようとしていた)家臣なのだ。東国の大名に「加賀を治めつつあるベッキは信長の家臣? いつの間に九州から援軍を? 九州も織田家が制圧したのか?」という稚気愛すべき誤解が生じることを狙ってのことらしい。

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信長によって改姓させられた家臣たち。明智の苗字にはそんなに利用価値がなかったということだろうか。

 ではなぜ、同じように越前一国を治めている柴田、それと同ランクで多くの与力を抱えている佐久間は改姓を指示されなかったのか。

 実は改姓した丹羽・塙・簗田はいずれも那古野城の近隣の出身で、もともとは那古野今川家の家臣だったと考えられる。つまり、そんなに大身でも名家でもなかったから、改姓したって構やしないだろう――信長にはそんな認識があったのではないか。

 これに対して、佐久間・柴田は比較的大身で、地元でもネームバリューがあったから、改姓を指示されなかったのだろう。

 そう考えていくと、同じく改姓を指示された光秀は、土岐家の流れを汲む名門ではなかった。もしくは名門だったとしてもかなり零落して、明智の苗字にはそんなに利用価値がなかったと考えることができる。
(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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