埼玉県ふじみ野市の民家で発生した立てこもり事件で、殺人容疑で送検された渡辺宏容疑者は、自宅に鈴木純一医師ら7人を呼び出し、「(母親が)生き返るかもしれないので、心臓マッサージをしてほしい」と蘇生措置を要求したという。この要求に対し、前日に母親の死亡確認をしていた鈴木医師は、死亡確認をしてから約30時間が経っていることなどを説明したらしい。すると、渡辺容疑者が散弾銃を取り出して鈴木医師に発砲し、鈴木医師は胸部に銃弾を受け、即死状態だったようだ。
死亡確認後30時間も経っていたら、蘇生措置を施しても効果がないのは、医学の常識からして自明の理であり、鈴木医師の説明は至極まっとうだと思う。だが、それを渡辺容疑者は受け入れられなかったので、怒りを爆発させ、発砲したのだろう。
なぜ渡辺容疑者は受け入れられなかったのか? 母親への愛着と執着が強すぎて、母親の死という喪失体験に耐えられなかった可能性が高い。あるいは、つきっきりで献身的に介護したにもかかわらず、母親が死んでしまい、無力感を覚えたのかもしれないし、母親の死後独りぼっちになる自分自身の孤独に対する不安が募ったのかもしれない。
いずれにせよ、渡辺容疑者が「母が死んでしまい、この先、いいことがないと思った。自殺しようと思ったときに先生やクリニックの人を殺そうと思った」とも供述していることから、母親の死という喪失体験によって絶望感にさいなまれたと考えられる。
それに耐えられなかったからこそ、「母親の遺体に心臓マッサージをしてもらえば生き返る」という考えが頭に浮かんだのだろうが、これは願望と現実を混同する「幻想的願望充足」にほかならない。「母親に生き返ってほしい」という願望が現実のものになるかのような錯覚に陥り、「生き返る」と思い込んでいるわけで、現実逃避ともいえる。
このような「幻想的願望充足」は幼児に起こりやすい。幼児は「~だったらいいのに」「~になりたい」といった願望がすぐに実現すると思い込む。たとえば、「自分が王子様だったらいいのに」「サッカー選手になりたい」といった願望をあたかも現実であるかのように錯覚することが多い。成長するにつれて、自分の願望がすべて叶うわけではないという苦い現実に直面し、徐々に現実を受け入れるようになるわけで、それが大人になることともいえる。
ところが、渡辺容疑者は66歳にもなって、幼児期の「幻想的願望充足」を引きずっているように見える。母親の死という喪失体験が痛切だったことは容易に想像がつくが、それにしても大人げない。もっと厳しい見方をすれば、あまりにも未熟だ。
利己心のない愛
一方、渡辺容疑者は事件前、母親の治療をめぐって複数の病院でトラブルを起こしていたとも報じられている。院内で「(母親の)内視鏡検査の順番を1番にしてほしい」「院長でないとダメだ」などと怒鳴り散らしたり、暴れたりしたことがあったという。母親の治療を自分の思い通りにやってもらえないと、暴君のようなふるまいをしていたわけで、駄々っ子のような印象さえ与える。
こうした一連の言動から、芥川龍之介の「子供に対する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に与える影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである」(『侏儒の言葉』)という言葉を思い出した。
渡辺容疑者は、母親の死という喪失体験に耐えられず、それを乗り越えられないという点では弱者である。同時に、母親の治療をめぐってトラブルを繰り返すとか、蘇生要求が受け入れられないと発砲するとかいったふるまいからは、暴君という印象も受ける。
おそらく母親は渡辺容疑者に「利己心のない愛」を注いだ、素晴らしい女性だったのだろう。だからこそ、渡辺容疑者がこれだけ執着したのかもしれないが、66歳にもなって“マザコン”と呼ばれても仕方のない状態だったのは、実に残念である。
(文=片田珠美/精神科医)