埼玉県ふじみ野市の民家で1月27日夜に発生した猟銃立てこもり事件で、人質になっていた医師の鈴木純一さんが死亡した。この事件で緊急逮捕された66歳の渡辺宏容疑者は無職で、高齢の母親をつきっきりで介護していたようだ。
死亡した鈴木医師は、在宅診療を行う医療法人に所属し、渡辺容疑者の母親の診察を担当していたが、この母親が亡くなり、渡辺容疑者の自宅に弔問に訪れた際、トラブルになったらしい。鈴木医師に同行していたクリニックの男性スタッフ2人も、渡辺容疑者に胸部を撃たれたり、催涙スプレーをかけられたりして、負傷している。
渡辺容疑者が母親をつきっきりで介護していたことから、自分の献身的な介護にもかかわらず、母親が亡くなったことに対する怒りがあったとも考えられる。実際、渡辺容疑者は鈴木医師を人質に立てこもっていた間、県警と電話でやりとりしたらしく、その際「介護をめぐり、怒っている」と話したという。
介護のどういう点に対して渡辺容疑者が怒りを覚えたのか、現時点では不明だが、医師が十分な医学的知識にもとづいて適切な治療を施しても、患者が死亡することはある。また、医師がどれだけ誠実に対応しても、患者や家族の不満をゼロにすることはできない。第一、医師は患者や家族の要求に100%応えられるわけではない。だが、そういう現実を受け入れられない方が一定の割合で存在する。渡辺容疑者も、その1人だったのかもしれない。
渡辺容疑者が66歳なので、亡くなった母親は80代か90代だったはずで、第三者から「寿命だったのでは」「年齢に不足はない」と言われても不思議ではない。だが、つきっきりで介護していたことから考えて、渡辺容疑者の母親への愛着は人一倍強かった可能性が高い。だからこそ、母親の死という喪失体験を受け入れられず、孤独感や絶望感もあいまって、怒りに拍車がかかったのではないか。
もっとも、いくら介護をめぐって怒りを覚えたからといって、母親の主治医を殺害し、同じクリニックのスタッフまで撃つのは過剰反応のように見える。このように、怒りの原因になった出来事と怒りのあまり引き起こす行為との間の落差が大きく、周囲の目に理解しがたいように映るのは、多くの場合本人が怒りや攻撃衝動をコントロールできないことによる。
こうした現象はさまざまな原因で起きるが、渡辺容疑者の年齢から考えて、加齢による影響も否定できない。加齢によって脳の前頭葉の機能が低下すると、怒りや攻撃衝動をコントロールしにくくなる。このような状態を精神医学では「脱抑制」と呼ぶ。年をとると気が短くなるといわれるのは、この「脱抑制」のせいである。
ただ、「脱抑制」は、双極性感情障害や認知症などの精神疾患、あるいは薬物やアルコールの影響でも起こりうる。だから、母親の主治医を殺害するほど怒りを爆発させた原因は何なのか、その背景に一体どんな事情があったのか、綿密に調べる必要があるだろう。
猟銃を所持するに当たっては、医師の診察を受け、精神的に問題がないというお墨付きをもらわなければならない。そのための診断書を私も何度か書いた。おそらく、猟銃の所持を許可された時点では、とくに問題はなかったと考えられるが、その後精神に変調をきたしたのかもしれない。もしかしたら、母親の死という喪失体験のショックが大きすぎて、感情のコントロールができなくなったのかもしれない。そのあたりのことを今後明らかにすべきである。
(文=片田珠美/精神科医)