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「偉人たちの診察室」第19回・源頼家

精神科医が語る北条政子“子殺し”の裏にある怒りと、源頼家「毒殺説」の真相

文=岩波 明/精神科医
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鎌倉幕府2代将軍・源頼家。頼朝が急死したことで家督を継承することになったが、在位期間はわずか4年ほど。偉大な父を超えようともがき苦しんだに違いない。(画像は京都・建仁寺所蔵の源頼家像【Wikipediaに掲載】より)

 源頼家は、鎌倉幕府の創始者であった源頼朝の長男であり、第二代征夷大将軍である。10代からの長い雌伏の時期があった頼朝とは異なり、頼家は生まれながらの「将軍家」で、10代の若さで源氏の棟梁となった。ところがその後に待っていたのは、悲劇的な結末である。母の実家である北条氏の陰謀により鎌倉を追われ、亡き者とされたのである。

 頼家の後を継いだのは、弟である源実朝だった。実朝は頼朝の次男として生まれ、12歳で鎌倉幕府の第三代征夷大将軍に任じられた。長じて武士としては初めて右大臣の職についたが、鶴岡八幡宮においてその翌年、兄・頼家の子である公暁に暗殺された。実朝は歌人としても知られており、『金槐和歌集』の著者である。

 実朝の死によって源氏の本流は断絶し、以後、鎌倉幕府の将軍は京都から公家や皇族を迎えることとなった(実はこの時点で頼家の四男は生存していたが、1220年に殺害された)。第四代征夷大将軍の九条頼経は関白である九条道家の三男で、頼朝の妹のひ孫にあたる。頼経は頼家の娘である竹御所を妻とし、第五代将軍には頼経の子が就任した。その後は皇族出身の将軍が続いたが、いずれも若くして北条氏により解任され、政治の実権は持っていなかった。

 このような流れについて疑問に感じられるのは、頼朝直系の男子が滅びた後、京都から将軍を迎えた点である。源氏の「棟梁」の家系は断絶したかもしれないが、源氏の縁者は各地に多数存在していた。頼朝の弟も生存していたし、室町時代に将軍家となった足利氏のほか、甲斐の武田氏も健在であった。

 足利氏、信濃の平賀氏などは、源氏のなかで「門葉」(もんよう)と呼ばれもっとも重視された親族で、門葉の一族は、将軍になれる資格を持っていた。にもかかわらず傀儡将軍が続いた点は、ライバルであった御家人を次々と葬り去ったことにより、ほかの一族では対抗できないほど北条氏の権力が絶大なものとなっていたためなのかもしれない。

王女メディアのような北条政子の“子殺し”…頼朝や源氏一族に対する激しい怒りが根底に?

 さらに疑問に感じるのは、頼家、実朝の母である北条政子の振る舞いである。謀殺された2人の将軍は、ともに政子の実子である。また実朝殺害の実行犯である公暁は、政子の孫にあたる。源氏本流断絶の背景に北条氏の暗躍があったことは明らかだが、政子は自分の実の子や孫が抹殺される計画に積極的に加担したのであろうか。彼女にとっては、実家の覇権のほうが重要だったのか。あるいは計画を知っていながら、いたしかたなく黙認したのだろうか。

 権力者の親族間の主導権争いはありふれた出来事で、たとえば足利尊氏は弟の直義を謀殺した(観応の擾乱)。時代が下って、織田信長も尾張一国の支配のために、弟をはじめとして多くの親族を抹殺している。

 このように親や兄弟の抹殺や追放というのはさほど珍しくはなかったが、「子殺し」というのは、さすがにあまり例がないようである。徳川家康は信長から疑いをかけられた息子の信康に切腹を命じたが、これも断腸の思いで死を命じたと伝わっている。こうしたことを考えると、北条政子が2人の息子とどう向き合い、なぜ彼らの死を許容したのか、その理由を知りたいものである。

 子殺しというテーマで思い出されるのは、古代ギリシアの劇作家・エウリピデスによる『王女メディア』である。夫・イアソンに別れを告げられて追放されたメディアは、イアーソーンへの復讐のために彼の新しい花嫁とその父王を殺害、さらに自分の2人の息子までを殺害してしまう。メディアを犯行に駆り立てたのは夫への復讐心であったが、北条政子も、頼朝や源氏一族に対する怒りを胸に秘めていたのかもしれない。

 なお本稿の執筆にあたっては、『北条氏の時代』(本郷和人著/文春新書)、『北条政子』(関幸彦著/ミネルヴァ書房)、『現代語訳 吾妻鏡7』(五味文彦、本郷和人訳/吉川弘文館)などを参考にした。

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のちに「尼将軍」として君臨し、強大な権力を握っていく北条政子。“悪女”という評価もあるが果たして……。(画像は江戸時代の絵師・菊池容斎による北条政子【Wikipediaに掲載】より)

『吾妻鏡』に見える将軍・源頼家の“愚行”は真実か…母・北条政子に叱責される頼家

 源頼家は寿永元(1182)年8月に、鎌倉で生まれた。父は鎌倉幕府の開祖である源頼朝、母は北条政子である。建久10(1199)年に頼朝が突然死去し、頼家が18歳で家督を継いだ。頼朝の死因は落馬によるものと伝えられているが、詳細は不明で不審死(暗殺?)であった可能性も指摘されている。

 頼家が後継者になって間もなく、政務に関しては北条時政を中心とした有力御家人13人による合議制がしかれていたが、御家人同志の対立がひんぱんにみられていた。『吾妻鏡』には、頼家が妻の一族である比企氏を重用し独裁的判断を行った挿話が述べられているが、この書は北条氏寄りの文書であるため、客観的な事実かどうかは不明である。

 もっとも、頼家が比企氏を頼りにしていたのは事実である。頼朝の乳母は比企氏の女性(比企尼)で、伊豆に流されてからも、比企氏は頼朝を経済的に援助していた。北条義時の妻も、比企家の女性であった(「比企能員の乱」により離縁となっているが)。

 頼家が家督を相続して3カ月後、先述の通り北条時政らによる御家人13人の合議制がしかれ、頼家が独断で訴訟を裁断することが禁じられた。頼家はこれに反発し、みずからに近い武士団をとりたてようとしたが、有効な対応策は打ち出せなかった。

『吾妻鏡』には、頼家の「愚行」が記載されている。具体的には、安達景盛の愛妾の女性を強引に自分のものにしたこと、理由もなく景盛を討とうとしたこと(これは政子に止められたという)、蹴鞠に興じて政務を省みなったことなどが述べられていうが、これらも北条氏寄りの記述と考えられ、どこまで事実を反映しているのか疑わしい。政子は頼家に次のように述べたと伝えられている。

 昨日景盛を誅しようとした行為は、誠に粗忽の至りです。あなたの今の態度を思うに諸国守護の権を全うできると思われません。政道を省みず色におぼれ、人の謗りを招く行為ばかりが目立ちます。また近仕の輩は邪侫の連中ではないか(『北条政子』ミネルヴァ書房)。

 建仁3(1203)年5月、頼家は弟である千幡(源実朝)の乳母、阿波局の夫である阿野全成を謀反人として逮捕し殺害した。さらに阿波局を拘束しようとしたが、阿波局の姉である北条政子が拒否しそれには至らなかった。阿野全成は源頼朝の異母弟で、頼家にとっては自分の地位を脅かしかねない人物だった。

源頼家の「病気」をきっかけに比企一族が滅亡…北条時政によるクーデターの成功

 この事件をきっかけとして、北条氏側の反撃が本格的に開始された。この時期、体調不良が続いていた頼家は、7月半ば過ぎに「急病」にかかり、一時は危篤状態に陥った。健康であった20代の青年が突如このような重病に罹患すること自体不自然である。

 さらに頼家が存命しているにもかかわらず、鎌倉から「9月1日に頼家が病死したので、千幡が後を継いだ」との報告が9月7日に京都に届き、千幡の征夷大将軍任命が要請された。鎌倉からの使者が出発したのとほぼ同時に、9月2日、鎌倉では頼家の妻の父親である比企能員が北条時政によって暗殺され、さらに比企一族が滅ぼされて頼家の息子の一幡も殺害された。一人残された頼家は事件を知り激怒して時政討伐を命じるが従う者はなく、将軍の地位を追われて伊豆に幽閉された。北条時政によるクーデターが成功したのである。

『吾妻鏡』によれば、北条氏に不満を抱いた能員が北条時政討伐を企てたが、病床の頼家と能員による北条氏討伐の密議を立ち聞きしていた政子が時政に報告し、先手を打った時政は能員を呼び出して殺害、さらに比企一族を滅ぼしたと記載されている。

 しかし実際は、比企氏による陰謀は存在せず、比企氏の力が強大になることを恐れた北条氏が、頼家の「病気」をきっかけとして、比企一族を滅ぼしたというのが真相のようである。伊豆の修禅寺に幽閉された頼家は、その後暗殺された。『愚管抄』によると、「修禅寺にてまた頼家入道を刺殺してけり。とみに、えとりつめざりければ、頸に緒をつけ、ふぐりを取りなどして殺してけりと聞えき」と述べられている。頼家の最後の日々については、明治時代の劇作家、岡本綺堂が戯曲『修善寺物語』としてまとめている。

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鎌倉幕府3代将軍・源実朝。源氏による支配はわずか3代しか続かず、頼朝の征夷大将軍就任後、30年もたたずに途絶えてしまった。(画像はWikipediaより)

源頼家の失脚、弟・実朝の暗殺…北条氏によって根絶やしにされる源氏一族

 頼家の失脚後、弟の実朝が将軍職を引き継ぎ、北条時政邸において12歳で元服した。元久元(1204)年12月には、京都より後鳥羽帝のいとこに当たる信子を正室に迎えた。建保6(1218)年1月、実朝は権大納言に任ぜられる。さらに10月には内大臣、12月には右大臣に昇進した。武士としては初めての右大臣であった。

 この時期、北条氏の力はさらに強大なものとなり、対抗できる御家人はすべて滅ぼされるか失脚するかしている。実朝の時代、問題となったのは朝廷との関係である。生まれながらの「貴種」である実朝は、妻が皇族出身であったこともあり、宮廷へのあこがれが強かった。みずから和歌を詠み、歌人として名をなすだけでなく、「治天の君」であった後鳥羽上皇にさまざまな案件を相談するようになった。

 このような実朝の朝廷重視の姿勢が、北条氏あるいは他の御家人の不興を買い、暗殺の直接、あるいは間接的な原因になったと考えられている。

 建保7(1219)年1月27日、右大臣への昇任を祝う拝賀の催しが鶴岡八幡宮で行われた。その退出の最中、実朝は「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われて絶命した。享年28(満26歳)であった。公暁は次に実朝の側近であった源仲章を切り殺して逃亡したが、その後捕えられて殺害されている。この暗殺事件の黒幕については、北条義時、三浦義村など諸説がある。

 実朝の暗殺後には、源氏の「残党」の一掃が北条氏によって行われた。事件からひと月後、阿野全成の息子である阿野時元が北条氏の手勢に討たれ、さらに公暁の弟である禅暁も北条氏により京都に送られ殺害されている。

源頼家の“病”とはなんなのか?…代謝性疾患、中毒性疾患の可能性、北条氏が毒殺を試みたか

『吾妻鏡』には、頼家の「病」の記載が繰り返しみられる。けれども、その症状や内容についての説明は述べられていない。『吾妻鏡』によれば、頼家の「病」は悪化と改善を繰り返し、一時は、危篤とみなされるほど悪化した。ところがその状態から、頼家は後遺症もなく回復している。

 それまで健康であった20歳前後の青年において、このような経過をたどる疾患といえばどのようなものが考えられるであろうか。生命の危機を伴うということなら、脳血管障害、心臓疾患、悪性腫瘍などが候補となるが、その後の回復状態からは考えづらい。可能性のある疾患としては、代謝性疾患、中毒性疾患などである。これらは一過性に意識障害をもたらすことはあるが、回復可能である。以下に『吾妻鏡』において、頼家の病に関する記述に関する見出しを挙げておく。

1203年3月 頼家、病悩。頼家、連日蹴鞠に興じる
1203年5月 阿野全成、謀叛の風聞により拘禁される
1203年7月 頼家、病悩
1203年8月 頼家、危篤となり領国譲渡の措置 比企能員、叛逆を企てる
1203年9月 比企氏の乱が起こる 頼家、出家
1204年7月 頼家、修善寺にて死す 頼家の御家人が誅殺される

 1203年3月においては、10日「昨夜の亥の刻から、将軍家が急にご病気になった」、14日「将軍家は、ご病気が治った後に沐浴された」との記載がある。7月については、20日「戌の刻に将軍家が急にご病気となり、ご気分の苦痛はただごとではないという」、23日「ご病気は、もはや危険な状態であるので、数種の御祈祷が始められた」と述べられている。

 このように頼家の病気の発症は、「急な発症」と症状の進展という特徴があり、慢性疾患の悪化とは考えられない。ここからはまったくの推測になるが、頼家は北条氏の手のものによって毒殺されそうになったが、そこから回復した……と考えるのが、いちばんあり得そうな話である。

家康は『吾妻鏡』に学び、徳川秀忠が源頼家のようにならぬように苦心した

 江戸幕府の創設者である徳川家康は、『吾妻鏡』の愛読者であった。改めて考えてみると、家康は『吾妻鏡』を反面教師として、江戸幕府の体制を整備したと考えられる。源氏の本家が断絶した歴史を鑑みて、家康がいちばん悩んだ点は、いかに徳川家の支配を存続させるかという点だったであろう。

 そこで考案されたのが例えば、「御三家」という血のスペアの制度であり、これがのちのち、徳川本家の窮地を救うこととなった(徳川吉宗はさらに、御三家をコピーした「御三卿」という制度を作っている)。加えて、武家間の無用な争いごとを防止し反乱の目を事前に摘むために、「武家諸法度」等で大名を厳格に管理する制度の制定も行っている。また仮に将軍は無能な飾り物であっても、部下の官僚システムにより安定した行政が継続できるようにした点も、家康の功績だった。

 家康は『吾妻鏡』に学び、秀忠が頼家にならぬように、徳川幕府が鎌倉幕府にならぬよう苦心したのである。

(文=岩波 明/精神科医)

岩波 明/精神科医

岩波 明/精神科医

1959年、神奈川県生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。都立松沢病院などで精神科の   診療に当たり、現在、昭和大学医学部精神医学講座教授にして、昭和大学附属烏山病院の院長も兼務。近著に、『精神鑑定はなぜ間違えるのか?~再考 昭和・平成の凶悪犯罪~』(光文社新書)、『医者も親も気づかない 女子の発達障害』(青春新書インテリジェンス)、共著に『おとなの発達障害 診断・治療・支援の最前線』(光文社新書)などがあり、精神科医療における現場の実態や問題点を発信し続けている。

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