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『鎌倉殿の13人』源頼朝と木曽義仲が仲が悪いワケ…父の代から血を血で洗う仁義なき戦い

文=菊地浩之(経営史学者・系図研究家)
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『鎌倉殿の13人』源頼朝と木曽義仲が仲が悪いワケ…父の代から血を血で洗う仁義なき戦いの画像1
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では俳優・青木崇高がワイルドで男気あふれる木曽義仲を好演。“一本眉”が話題となった巴御前(演:秋元才加)との互いを思いやる別れのシーンは涙、涙でした……。(画像は、長野県木曽郡木曽町日義にある徳音寺所蔵の木曽義仲像【Wikipediaに掲載】より)

源義朝と木曽義仲、いとこ同士の仲の悪さはガチ

 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第13回(4月3日放送)で、木曽義仲(演:青木崇高)が登場した。義仲は源頼朝(演:大泉洋)の従兄弟にあたる。読者のみなさんも日本史の授業で習ったと思うのだが、この従兄弟同士はあまり仲がよくない。最終的には、頼朝の命を受けた源範頼(のりより/演:迫田孝也)・義経(演:菅田将暉)兄弟によって、義仲は討たれてしまう。

 なぜ、血を分けた従兄弟同士なのに仲がよくないのかといえば――これは日本史の授業では習わなかったと思うのだが――父の代から、血で血を洗う死闘を繰り返してきたからなのだ。

木曽義仲の父・源義賢、源為義のあと押しを受け、摂関家に取り入り出世街道を驀進!

 ことの発端は、頼朝と義仲の祖父・源為義(ためよし)がダメンズだったことに由来する。

 為義ははじめ白河法皇の近臣で、同じく院の近臣だった藤原忠清の娘を妻に迎え、長男・源義朝(よしとも)が生まれた。頼朝の父である。

 ところが、為義の郎党(家臣)に不祥事が相次ぎ、本人の失態もあって、白河法皇から見放され、摂関家への接近という路線変更を余儀なくされた。義朝は母方の親族が院の近臣だったので、摂関家に近づきたい為義にとって邪魔な存在だった。

 当時は必ずしも長男が跡を継ぐというルールが確立していなかったこともあり、為義は義朝を疎んじて、次男の源義賢(よしかた)を後継者に定めた。

 義賢は通常、帯刀先生(たてわきせんじょう)義賢と呼ばれるのだが、これは皇太子(のちの近衛[このえ]天皇)の親衛隊長(=帯刀先生)に任官していたからだ。いうまでもなく、父・為義が義賢の任官を推薦していたのだ。義賢は、摂関家の藤原頼長と男色の関係になり、文字通り「かわいがられていた」。出世街道まっしぐらである(2012年のNHK大河ドラマ『平清盛』では、山本耕史が頼長を演じていた)。

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平治の乱で父・源義朝が敗死したため、頼朝は源氏再興に並々ならぬ思いを抱いている。(画像は、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師・歌川芳虎による『元平治合戦源義朝白河殿夜討之図』【Wikipediaに掲載】より)

頼朝の父、源義朝、関東に下向して、地元武士団の“調停役”で大暴れ

 一方、当時の義朝は放っておかれて、無官だった。

 義朝は関東に下向して、地元武士団の勢力争いを支援したり、調停したりしていた。のちに頼朝がやっていたようなことを、父・義朝がすでにやっていたのだ。

 義朝はまず、上総広常(演:佐藤浩市)の父・上総常澄と結託。当時はまだ弱小勢力だった千葉常胤(演:岡本信人)の父・千葉常重が、国司から所領を奪われそうになっているところを助け、その所領の半分を上総常澄に譲らせた(ちなみに常澄と常重は従兄弟である)。千葉氏から見ると、「上総に半分とられたけど、国司に全部とられるよりは良いかぁ」という感じである。

 また、義朝は三浦義澄(演:佐藤B作)の父・三浦義明に頼られて鎌倉に居住し、永治元(1141)年には義明の娘との間に長男・源義平(よしひら)をもうけている。

 義平は通常、鎌倉悪源太(あくげんた)義平と呼ばれる。ここでいう「悪」とは、「強い」という意味で、「鎌倉に住んでいる、武闘派の、源氏の長男」という意味である(同じく2012年NHK大河ドラマ『平清盛』では、波岡一喜がズル賢そうに演じていたが、それは勘違いである)

頼朝の兄である源義平、15歳にして、木曽義仲の父である源義賢を殺害す

 義平が生まれる前年の保延6(1140)年、義仲の父・義賢は、殺人犯を匿って失脚。為義は義賢の弟・源頼賢を後継者に指名した。

 一方の義朝は鳥羽法皇に接近して、仁平3(1153)年に下野守(しもつけのかみ/栃木県の国司)に就任。摂関派の為義&義賢と、院政派の義朝の力関係が逆転したのである。

 義朝が国司の地位を得て関東に一大勢力を誇っていることに、為義は危機感を覚え、義賢を上野国(こうずけのくに/群馬県)に派遣。義賢は武蔵(埼玉・東京)の豪族・秩父重隆(ちちぶ・しげたか)の女婿として、上野から武蔵にわたって勢力を拡げた。そして、ついに両者の武力衝突がはじまる。

 久寿2(1155)年、義朝の子・義平が、武蔵にある義賢の屋敷を襲撃し、義賢と岳父・秩父重隆を殺害してしまうのである。義平って、まだ満15歳じゃないの? さすがは悪源太といわれるだけはある。

 木曽義仲は、その前年に生まれたばかりの幼児で、秩父重隆の甥・秩父(畠山)重能(しげよし)らの計らいで、乳母(めのと)の夫・中原兼遠(なかはらの・かねとお)とともに信濃木曽に逃れたという。なお、秩父重能は畠山重忠(演:中川大志)の父。中原兼遠は、木曽義仲の愛妾・巴御前(秋元才加)の父ともいわれている。

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1160年に院近臣らの対立により発生した政変・平治の乱。藤原信頼ら率いる軍勢が院御所・三条殿を襲撃、阿鼻叫喚の地獄絵図となった。(画像は、ボストン美術館所蔵の『平治物語絵巻』三条殿焼討【Wikipediaに掲載】より))

保元・平治の乱で兄2人は殺され…頼朝はなぜ殺されなかったのか?

 義賢殺害事件によって、義朝と為義(+義朝の兄弟たち)の対立は決定的なものとなった。

 義賢に代わって為義の嫡男となった頼賢は、義賢と仲がよかったので、義朝との間で武力衝突しそうになったが、すんでのところで回避したといわれる。

 ところが、その翌年、保元元(1156)年に天皇家(後白河法皇VS崇徳上皇)と摂関家(兄・忠通VS弟・頼長)を二分する保元の乱が起きると、源義朝は院政派なので後白河法皇側につき、摂関派の源為義とその子どもたち(義朝を除く)は崇徳上皇側についた。後白河法皇側が勝利し、源為義と頼賢等(義朝の弟たち)は処刑されてしまう。

 そして、平治元(1159)年に平治の乱が起きて、義朝は敗走中に尾張(愛知県)で討たれた。三男の頼朝は逃走中にはぐれて平家方に捕縛され、次男の源朝長(ともなが)は合戦で負傷して逃走中に死去。長男の源義平は翌永暦元(1160)年になって捕縛され、六条河原で処刑された。頼朝の同母弟・源希義(まれよし)以下の兄弟は元服前で合戦には参加せず、希義は土佐に流されて源氏挙兵の際に殺害され、義経らは僧籍に入れられた。

 頼朝は三男だが、義朝の嫡男・後継者である兄二人が死んだからではなく、母親の身分が高かったのだ。母は熱田神宮の神官・熱田大宮司季範(あつただいぐうじ・すえのり)の娘で、季範は藤原南家の流れを汲む貴族で、後白河法皇(演:西田敏行)の側近だった。

 頼朝が助命されたのは、平清盛(演:松平健)の継母・池禅尼(いけのぜんに)が「若くして死んだわが子によく似ている」と助命嘆願したからといわれていたが、実際は母方のコネだったんじゃないかという学説も近年登場している。

木曽義仲の子孫は、戦国時代まで生きながらえた、のか…?

 ちなみに(その1)、木曽義仲の子孫は戦国時代まで生きながらえた(ということになっている)。信濃木曽を支配していた木曽義昌(よしまさ/1540~?年)が義仲の末裔と自称しているのだ(ホントかどうかはわからない)。

 武田信玄は信濃に進出すると、娘を義昌に嫁がせて家臣団に組み入れ、親族衆として遇した。ところが、天正10(1582)年に織田信長に内通。武田討伐→武田家滅亡の端緒を開いた。武田滅亡後は徳川家康に臣従し、関東入国で下総阿知戸に1万石を賜るが、その子・木曽義利が叔父を殺害したことを咎められ、改易されてしまった。

一族相克の火の粉が新田家へ

 ちなみに(その2)、新田義貞の先祖・新田義重は、源頼朝が挙兵した際に、源平いずれにも加担せずに中立的な立場を目指していたのであるが、隣国・信濃の木曽義仲が挙兵すると、びびって頼朝の麾下に馳せ参じた。義重は娘を義平に嫁がせており、義平とともに義賢殺害に加わったので、義仲の報復を恐れたのだ。

 義重の娘(義平の未亡人)は美人だったらしい。亀の前(演:江口のりこ)事件の頃、頼朝は彼女にも手を出そうとしていた。すると今度は、義重は政子(演:小池栄子)の怒りを買うのではないかとびびって、娘を再縁させてしまった。新田義重は、参陣は遅れるは、娘との恋愛は邪魔するわで、頼朝の心証が悪かったらしい。それがもとで、新田家は軽んじられ、鎌倉時代に不遇をかこったといわれている。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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