『明日ママ』がテレビに残してしまった、“前例”と“タブー”~最終回から考察する
3月12日、日本テレビの連続テレビドラマ『明日、ママがいない』が最終回を迎えた。内容もさることながら、放送中止の要請やスポンサーのCM自粛など、いわば騒動自体が話題となったドラマだった。
4月8日には放送倫理・番組向上機構(BPO)が「全体として視聴者に受容される内容になっていった」とのコメントを公表したが、あらためて初期の放送分を見直してみると、主人公(芦田愛菜)に「赤ちゃんポスト」からとった「ポスト」というニックネームを付けたり、施設長(三上博史)に「お前たちはペットショップの犬と同じだ」といった乱暴なセリフを言わせるなど、見る側にショックを与える内容に問題がなかったとはいえない。
特に「赤ちゃんポスト(正式名称:こうのとりのゆりかご)」は実在の取り組みであり、全国で1カ所だけ設置されている慈恵病院が、この名称の使われ方に抵抗したのは当然だろう。
さらに、このドラマの舞台となっている「コガモの家」は「児童養護施設」として、また「グループホーム」として設定されている。それが現実の存在であるだけに、「誤解、偏見、差別を生む」「施設の子供たちが傷つく」という当事者からの批判が起きたことも理解できる。
このドラマが伝えたもの、残したこと
2月上旬になって、日本テレビが内容を改善する方向を示したことにより、その後、騒動は一応沈静化した。また内容も、途中から明らかに登場人物たちの言動がマイルドになった。
そして、最終回。半ば予想通りの結末だったが、ようやく最後で、ドラマが伝えたいことを視聴者は感じ取れたのではないだろうか。
施設にいた4人の子供はそれぞれ、違った道を進んでいった。ここで大事なのは、彼らが大人(他者)の意向ではなく、自らの意思で選択した道を歩き出したことだ。子供たちもまた自己決定をしなければならない時代になったことを示しているように感じた。
また、現代的な親と子の断面も切り取って見せた。それは「親子関係に正解はない」という事実だ。最終的に子供が幸せになればいい、という主張も含んでいた。
今回、施設長の発言などが、児童養護の実態と異なると批判された。その批判が根拠のあるものであることは前述した通りだ。
しかし、あえて言えば、特定の個人を傷つける場合を除き、フィクションの表現は顰蹙を買うものであれ、目を背けたくなるようなものであれ、可能な限り許されるべきだ。誇張して表現することで、本質を浮かび上がらせることもある。ただし当事者への配慮は必要で、それもまた「表現すること」の一部だろう。
野島伸司が監修し、松田沙也が担当した脚本は、制作側の考える「わかりやすさ」を優先させたものになっていた。だが、児童養護というデリケートな問題に対するアプローチは粗く、稚拙な面があった。その意味で、制作側の責任は大きい。
ただ、制作側の狙いとは別に、視聴者の受け止め方は自由だ。極端にいえば、視聴者には「誤読」する楽しみもある。誰も見向きもしない一言に、感動する人もいる。制作側だけでなく、周囲からも、「こう感じるはずだ」という決めつけをするのはよくない。
今回はインターネット上などにおける世論形成過程で、否定の同調圧力を感じた。ある流れと方向ができると、異論を挟むことが難しくなる。その点も現代を象徴していたのではないだろうか。
テーマのタブー化
最後に、以下のことを再確認しておきたい。それは、「抗議があればスポンサー企業はCMを見合わせ、テレビ局はフィクションであるドラマの内容も修正する可能性がある」という前例をつくってしまったことだ。
また今後、テレビ局や制作者は警戒・萎縮し、扱うテーマや表現において、見えないところで自主規制していくだろう。危うい物件には誰も手を出さない。具体的にいえば、児童養護やその施設がドラマで描かれることは当分ないはずだ。一種のタブー化である。
タブーが増えることは、制作者はもちろん、テレビという“文化”にとっても、それを享受する視聴者にとっても決して望ましいことではない。残念ながら『明日、ママがいない』は、そういう1本となってしまった。
いつかまた、この難しいテーマを、ドラマの中の子供たちのように「自らの意思で選択」し、挑戦する制作者が現れることを祈りたい。
(文=碓井広義/上智大学文学部新聞学科教授)