自身がクリスチャンである村田学長は「明治以来今日に至るまで、日本の人口に占めるキリスト教徒の割合は、わずか1%にすぎません。他方、国際社会ではキリスト教人口は22億人にも上る。キリスト教の視点から社会や物事を考察し、キリスト教について一定の理解や知識を有していることは、少数者を尊重する多様性と多数とつながる普遍性の両方に通じる」と述べる。
●大学ランキングとは一線を画した土俵で競争
京都、私学、キリスト教の3要素に共通するものは、多様性であり、寛容の精神であり、自立心である。考えてみれば、これらなしに21世紀のグローバル社会を生き抜くことはできない。つまり、同志社の伝統の中には、きわめて今日的な意義が存在する。
戦後、どこの大学も進学熱の高まりとともにマンモス化していく中で、同志社大学も同じ道をたどった。昔の同志社大学を知る人ほど、「普通の大学」になってしまったと惜しむ。同志社大学が最も重要視している「良心」とは真逆の行動をしている学生、OBも見受けられる。だが、それは、マンモス校ならどこもが経験する理想と現実のギャップといえよう。
しかし、理想を捨ててしまえば、それこそ同志社は「普通の大学」になってしまうだろう。同志社小学校の校歌には次の一節がある。
「えらい人になるよりも、よい人間になりたいな。同志社小のわたしたち」
「これでは逞しい人は育たない」と思う向きも少なくないだろう。確かに、表面的にとればそうかもしれない。しかし、キリスト教に詳しい人なら、その真意が理解できる。聖書のマルコによる福音書9章33~35節には、「いちばん先になりたいものは、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」というイエスの言葉が書かれているからだ。この考え方は、経営学でいえば、上司は下から社員を支えるという「サーバントリーダーシップ」に通じる。グローバルなマネジメントの潮流を考える場合、このような知識と感覚が必要になってくる。
良く言えばあらゆる宗教に寛容、悪く言えば宗教音痴の日本人は、どのような異文化でも抵抗なく受け入れるが、一方では宗教をベースにした外国文化圏の事情には疎い。新興国を中心とするグローバル化を考えた場合、キリスト教だけでなくイスラム教、ユダヤ教などの一神教の研究に強く、さらに、「コンソーシアム京都」という京都の51大学からなる単位互換制度を活用し、仏教系大学の講義も京都駅前のビルで受講できる同志社大学は、ランキングとは一線を画した土俵で競争力を発揮することだろう。
(文=長田貴仁/神戸大学経済経営研究所リサーチフェロー、岡山商科大学経営学部教授)