「止められないからNG」(裁判所)だった原発は、なぜつくられた?
1つ目は、危険度(リスク)。
これは危険の発生する確率と言ってもよいかもしれません。「3日に1度死亡事故を起こす電車」は論外としても、「100年に1度」と言われた場合はどうでしょうか? これについては、SILのところで詳解します。
2つ目は、費用対効果(コスト)。
先ほど説明した「南シナ海で台風が発生した時点で電車を止める」では、鉄道会社が業務を実施する意義が見いだせず、鉄道サービスそのものが成立しません(=公共性の問題)。また、隣駅まで1000円かかれば、誰も電車を使わなくなるでしょう(=経済性の問題)。
3つ目は、倫理(モラル)。
「放射性物質はバラまかれたけど、現時点で誰も死んでないじゃんか」→「だから原発は安全なんだよ」という理屈が成立しないのは言うまでもありません。現時点でリスクを計算ができないものを「安全サイド」に倒すというのは、まさにモラルに反しています。「わからない」なら、「危険サイド」に倒しておく、という考え方こそがモラルにかなっていると言えます。
簡単にまとめますと、
・合理的=リスク+コスト+モラル
と記述できると思います。
ところが、この「合理的」の解釈が、これまた、とても難しい。
●「合理的」とは何か?
例えば、
「原発を抱える電力会社は、赤字になっても安全性対策には無尽蔵のコストを費やすべきだ」
という考え方を、「合理的」と考えることもできます。一方、
「安いサービスを実現するためには、安全基準を緩めてもコストダウンを図るべきだ」
を「合理的」と考えることもできます。あるいは、
「人が死ぬような事故を絶対に阻止する代わりに、死に至らない事故(重傷を含む)については看過する」
という考え方もあり得ます。
これを、もっと開けっぴろげに表現してみれば、
「死亡者1人 = 重傷者100人として計算しましょう」
を「合理的」と言ってもよいということです。また、「合理的」は、対象によっても変わってくるから、さらに面倒くさいのです。
これまで考察したように、「福島原発は、直接の被ばく事故による死者を出していない。だから原発は安全だ」と言われたら 皆、絶対に怒るでしょう。
原発が、鉄道や旅客機と決定的に違うことは、「人が戻れない地域を生み出してしまうこと」「人が食べられない食物を生み出してしまうこと」そして、それが「いつまで続くかわからないこと」などがあります。決定的に面倒なのは、これらの「合理的」の中の「リスク」が、客観的な数値として把握できないことにあります。
私には、危険を主張する人と安全を主張する人の見解の相違が、軽く100万倍を超えているように見えます。
(文=江端智一)
※後編へ続く
【註1】http://ja.wikipedia.org/wiki/浜岡原子力発電所
【註2】別冊ジュリスト 特許判例百選(第3版)『危険の防止と発明の完成 ―原子力エネルギー発生装置事件』
【註3】高村薫 「神の火」http://www.amazon.co.jp/神の火〈上〉(新潮文庫)[文庫]/dp/4101347123
【註4】http://ja.wikipedia.org/wiki/イラク原子炉爆撃事件
【註5】http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/gentai/irei_tuitou/houan.html
【註6】江端さんのひとりごと「神の火」http://www.kobore.net/godfire.txt