「主人公を極限の状況に追い込んだところで、そういう大きなテーマを考えさせるといいのではないか」と思いつき、その場面を設定するために発災直後の被災地を選択しました。また、本作に限らず、阪神・淡路大震災を経験して以来、震災は私自身の大きなモチベーションでもあります。東日本大震災については、被災地で起きたことが十分に伝えられていないのでは、というもどかしい思いがあったことも、ひとつの理由です。
–物語の中では、震災報道やメディアのあり方にも疑問を投げかけています。
真山 あの震災では、“死”というものが消されています。震災直後の状況を文字でしっかり描写したマスコミは、ほとんどありませんでした。「戦後最大の自然災害なのに、これだけ死の匂いがしないのはなぜか」と、ずっと考えていました。それは、伝えるべき人が伝えなかったということではないでしょうか。
紙面には、「○人死亡しました」という交通事故と変わらない様子の記事や、通り一遍の悲しみの言葉が並びました。家や車が飲み込まれ、破壊し尽くされた状況が、なぜ生々しく伝わってこなかったのでしょうか。それは死と向き合いきれていなかったからだと思います。
本来、こうしたことはノンフィクションが扱うべきテーマなのだと思ってきました。しかし、本作を準備する中で、今の商業ジャーナリズムではそれは難しいとも感じました。なぜなら、生き残った人への配慮や訴訟リスク、記者たちの経験値の少なさなどが邪魔をするからです。後世にこの震災がどのようなものであったのかを生々しく感じてもらうためには、小説でしかできないかもしれないと考えました。
–昨年『そして、星の輝く夜がくる』(講談社)を上梓された際にも、東日本大震災と死について話されていました。
真山 今は、ほとんどの人が病院で死にます。そのため、“死”というものが日常の中で希薄になっているように思えます。病院では、死んですぐに「お亡くなりになりました」と告げられます。体温は残っていて、もちろん腐敗もしていません。
今回、自衛隊が被災地に入って泥の中から遺体を引き揚げたり、遺体を洗ったりしましたが、自衛隊の若者は警察や消防よりも遺体を見た経験が少ないのです。戦場に行ったことがないからです。イラクに行っても後方支援しかしていないので、遠くで米兵やイラク人が死んでいても、直接的に死に接する場面はありませんでした。そのような隊員が、いきなり甚大な被害が発生した被災地に投入されたので、心のケアが大変だったと聞きました。