今年はオリンピック・イヤーです。いまだにさまざまな意見が飛び交っていますが、2012年のロンドン・オリンピックの時にロンドンに在住していた経験から、実際にオリンピックが始まってしまえば、みんな大喜びでテレビにかじりつくだろうと予想しています。当時のイギリスでは、オリンピック予算を確保するために、日本の消費税にあたる付加価値税を17.5%から20%に引き上げたり、ロンドン市内の公共機関の料金を1.5倍まで上げるなど、日本では考えられないくらい露骨に国民に負担を強いていましたが、オリンピックが始まってみるとイギリス国民はお祭り騒ぎでした。
ちなみに、オリンピックに続いてパラリンピックが開催されますが、日本ではパラリンピックは長い間、障害者の福祉という側面から厚生労働省所管となっていましたが、今では本格的なスポーツの一部門として文部科学省に移され、オリンピックと一緒に管轄されるようになったことは、大きな転換期だったと思います。
視覚障害者のためのサッカーまであり、ボールの中に入っている鈴の音を聞き分けながらプレイをする、鋭い選手の聴覚には舌を巻くしかありません。
音楽家のなかには、視覚障害を抱えながら素晴らしい演奏を繰り広げて、観客を魅了している方々がたくさんいます。クラシック演奏家以外にも、まだまだ往年のファンも多い、ジャズ歌手でピアニストの故レイ・チャールズは盲目でしたが、聴衆の心を一度つかめば離さない歌唱力とピアノ演奏を繰り広げていました。同じく視覚障害を持ったミュージシャンのスティーヴィー・ワンダーも、まだまだ現役で活躍しています。彼らの視覚障害が、演奏する音楽に直接影響するわけではないので、彼らにはパラリンピック的な考え方は当てはまりません。
パラリンピックには、視覚障害者だけでなく肢体不自由者、つまりは腕や足を失くしたり、麻痺を持っている選手も参加しています。しかし、ここでも演奏家の場合は事情が異なるのです。それは、楽器のほとんどは脚を使うことがないからで、ヴァイオリンもフルートも演奏に使うのは両手のみです。車いすに乗りながら活躍している演奏家も、たくさんいらっしゃいます。例外として、足でペダルを踏まなくてはならないピアノ、ハープ、オルガンなどもありますが、両手さえあればほとんどの楽器を問題なく演奏できるのです。
音楽によるリハビリ効果
フランスを代表する作曲家、モーリス・ラヴェルの名作のひとつに『左手のためのピアノ協奏曲』があります。左手だけで演奏する協奏曲ですが、左手の5本の指だけで弾いていることが信じられないくらい、ラヴェルの魔術的な才能が光っている作品です。しかし、この曲はラヴェルが酔狂で作曲したわけではありません。
当時、パウル・ヴィトゲンシュタインという、オーストリア生まれのピアニストがいました。1913年にデビューをし、順調に活動をしていこうという矢先に、第一次世界大戦が勃発。ヴィトゲンシュタインは戦争に召集され、右手を失ってしまうのです。普通の考え方ならば、これでピアニストの道は完全に断たれるわけで、誰もがそう思ったに違いありません。
ところが、彼は違いました。「左手で弾ける曲がなければ、作曲家に頼んでつくってもらえばいいじゃないか」と考え、ラヴェルをはじめ、オーストリアのエーリヒ・コルンゴルド、イギリスのベンジャミン・ブリテン、ドイツのパウル・ヒンデミット、ロシアのセルゲイ・プロコフィエフいった当時最高の作曲家に、左手だけで弾くことができる協奏曲の作曲を依頼したのです。そして、彼のもうひとつのすごさは、その鋭い鑑識眼でした。作曲家というのは、生存中は華やかに活躍していたとしても、あっという間に忘れ去られることが実に多いものです。そんななか、彼が選んだ作曲家は、今現在もなお、高い評価を受けている人たちばかりでした。
彼が作曲家に依頼した左手のための協奏曲は、現在も脳疾患などのさまざまな理由で右手を使うことができなくなったピアニストの主要レパートリーとなっています。日本人では脳出血から復帰された舘野泉さんが有名です。音楽家、特にピアニストは中枢神経系が障害を起こす局所性ジストニアにかかるケースが多くみられますが、一定期間に繰り返し指を動かすことが原因と考えられています。それも、よく動かす右手に障害が出ることが多いのです。左手のための協奏曲は、そんな彼らの活動の場を支えているのです。
一方で、音楽演奏が脳疾患のリハビリに効果があることも現在、注目されています。治療的楽器演奏というユニークな治療方法で、患者に歌を歌わせたり、楽器を一緒に演奏することで、効果を上げているそうです。
今、社会問題化している認知症予防にも、楽器演奏は大きな効果があるといわれているのです。
もちろん音楽を聴かせることも、音楽療法では積極的に行われています。しかし、落ち込んでいる人やうつ病患者に、良かれと思って明るい曲を聴かせて元気づけようとするのは逆効果です。実は、そのような場合には悲しい曲を聴かせるのがよいといわれているのです。
医療情報源として有名な「コクラン共同計画」の2017年のレビューによると、悲しい音楽は、うつ病患者に少なくとも短期間の効果をもたらしたといい、将来的には音楽療法において悲しい音楽にさらなる焦点を当てることになるだろうと予測しています。
医学博士でもあった作家の故渡辺淳一さんはコラムの中で、筋肉を傷めた場合、冷やす湿布か温める湿布か、どちらが貼ればいいのかという質問に対し、このように答えていました。
「炎症が起こっているときは冷やしたほうがいいし、回復期には温めたほうがいいとかありますが、簡単に言ってしまえば、患部が気持ち良く感じる湿布を貼ればいいのです」
音楽も同じで、自分が今、聴きたい曲を聴くのが良いことなのでしょう。
(文=篠崎靖男/指揮者)