「人生100年時代」と政府が掲げ、高齢者の雇用促進、リカレント教育などに力が注がれる。一方で早期退職を募る大手企業も多く、終身雇用制度は崩壊しつつある。そんな現状に不安を感じる方も多いだろう。しかしながら、人生はあきらめなければ、いつだって逆転できるのである。本連載では、どん底人生からあきらめずに逆転した経験を持つ人を紹介していく。
さとうたけし氏は、世界で活躍するローラーペイントアーティストである。数多くのテーマパークや商業施設の壁画を手掛けるほか、テレビでのローラーペイントのパフォーマンスなどメディアへの露出も多い。多くの人を惹き付けるさとう氏の独特のパフォーマンスは唯一無二の存在。そんなさとう氏にも、どん底と思えるときもあったという。どん底から世界的アーティストへと、どのように大逆転したのかを聞いた。
絵描きでは生活できない
さとう氏は宮城県大河原市に生まれ、幼少期はのびのびと育った。
「もの心ついたころから絵を描くことが好きで、いつも何か描いていました。周りの大人から『絵が上手いね』と褒められるのが嬉しかったことを覚えています」(さとう氏)
そんな幼少期を送り、自然と「将来は絵描きになる」と夢見るようになっていった。ところが、中学生になると急に周囲の大人の意見が変わり、さとう氏は大きな戸惑いを覚えた。
「中学生のときも将来は絵を描いていこうと思っていましたが、それまで絵を褒めてくれていた両親が『絵では生活できないから、絵は趣味で続ければいい。ちゃんと就職するのがいい』って言い出したのは、ちょっとショックでしたね」(同)
しかし、高校生になる頃にはさとう氏も「大人の言う通りかもしれない」と考えるようになり、大学に進学した。卒業後は自動車会社に就職し、2年間の会社員生活を経験した。
「両親が言うように、安定収入みたいなことが大事なのかなと思ってがんばりましたが、やっぱりアートに対する思いが消えず、仕事を辞めて渡米しました」(同)
当時、さとう氏が仕事を辞めたことで両親はショックを受けていたという。
「田舎で真面目な人生を送ってきた両親にとっては『アートって何?』という感じだったし、ましてアートで飯は食えないだろうとの思いしかありません。それでも僕はアートに賭けたかったんです。ゼロか百かしかないが、百を掴むという気持ちで米国・ロサンゼルスへと向かいました」(同)
手探りでの海外生活
ビザについての知識もなく海外での生活を始めたという。
「最初は観光ビザだったし、英語も話せないし、誰も雇ってくれない。観光ビザでは働けないことを知り、それで初めて『ビザが必要なんだ』と認識し、調べてビザを取るという具合でした。そんな感じで生活を始めて、必要なことがわかったら一つひとつ解決していきました」(同)
なんとも肝が据わっているさとう氏は、仕事も自分の力で開拓していった。
「LAでは、子供部屋の壁にもアートペイントをしたりするんですよ。そこで、直談判で『壁に絵を描かせてほしい』と頼んで描かせてもらって、出来上がった絵を見て『上手いじゃん』と言われて20ドルもらう、という感じの繰り返しでした。徐々に仕事ができるチャンスに恵まれて『意外とやっていけるかも』という気になりましたね」(同)
そのポジティブさと行動力で、アートペイントアーティストとしての道を切り開いていった。そのままロサンゼルスで活動を続けるつもりでいたさとう氏だが、日本へ帰ることになった。
「活動していくなかで支援者もできたのですが、その方が日本へ帰ることになり、それをきっかけに私も帰国しました」
ロサンゼルスでアーティストとして自信をつけたさとう氏は、意気揚々と帰国の途についた。
運が味方し、テーマパークでの仕事に就く
日本でアーティストとして活躍できることを願って帰国したさとう氏だが、現状は厳しかった。
「日本では海外のようにアートペイントの仕事はなく、どうやって生活していくべきかわからない状況でした」(同)
しかし、“運”がさとう氏の味方をした。
「ちょうど、あるテーマパークの建設が始まり、壁画などを描くアーティストが海外からも大勢来ていたのですが、そのなかにアーティスト仲間がいて、『お前も来いよ』と声をかけてくれました。おかげで私もそのテーマパークの壁画を描くことができました」(同)
その仕事は1年近く続き、やり甲斐のある仕事だったという。
「テーマパークでの仕事は、私にとっても大きな実績となりました。評価していただき、アーティストとしてステップアップできました。また、長期間の仕事で仲間との横のつながりも広がりました」(同)
こうしてテーマパークでの仕事が高い評価を受け、新たな仕事を呼ぶ結果となり、活躍の場を広げていった。
技術の進化に負けそうになる
順風満帆にみえたさとう氏を次に襲ったのは、“技術の進歩”だった。
「インクジェットプリンターの登場は、私のようにアートペイントを仕事とする者にとって脅威でした。外壁でもシャッターでも、どこにでもインクジェットプリンターで絵を描けるんですよ。アーティストに頼むより安く速くできるので、当然、仕事は減りますよね」(同)
それまでは筆やエアブラシを使用し描いていたさとう氏の絵は制作に時間もかかるため、インクジェットプリンターには負けてしまうと感じ、『新しいマーケットを開拓すること」を考え始めた。
「思いついたのが『ライブアートペイント』でした。それには『楽しませる』ことが必須だから、『スピード』と『意外性』が大事だと考えて、模索するなか中で出合ったのがローラーペイントでした」(同)
新しいマーケットを開拓するにあたっては、相当な覚悟があったという。
「ライブペイントアーティストとして成功するためには、それまでの従来の筆やエアブラシは使わず、ローラーペイントだけでやっていくべきだと考えました。ちょうどそのタイミングで結婚もして、その当時、妻に『もしかしたら失敗するかもしれないけれど、ローラーペイントに賭けてみたいと思う』と話したら、『がんばって!』と背中を押され、やるしかないと決心しました」(同)
その強い一念は成功を生み、唯一無二のさとう氏のパフォーマンスは評判となった。イベントのみならず、テレビなどのメディアにも数多く登場するようになった。
転機となった3.11
2011年3月11日、宮城のスタジオから仕事場へ向かうクルマの中で東日本大震災に襲われた。
「クルマに乗っているときに地震が起きて、前に進めなくなりました。周りのクルマも止まって、すごく揺れていました。それはもう恐怖でした」(同)
その後、宮城でさとう氏の見た光景は凄まじいものだったという。
「こんなにも沈んでしまうのかと思うほど、誰もがつらい状況の中にいました。友人のミュージシャンと一緒に、音楽とアートでみんなを元気づけようと、被災のひどかった地域へ向かいました」(同)
しかし、被災の状況を見てさとう氏は絵を描くより先に、ある行動に出た。
「正直、多くの人が亡くなってしまったり、行方不明になっていて、至る所が瓦礫に埋もれているなかで、必要なものは歌でもアートでもないという気持ちになりました。とにかく、瓦礫を取り除かなければ、との思いから、ただ黙々と作業しました」(同)
瓦礫を片付けながら、さとう氏は複雑な気持ちになった。
「この状況で、アートでできることがあるのだろうか、と悩みました。なんて無力なんだと心が折れました」(同)
そんなさとう氏を奮起させたのは、アーティスト仲間からのチャリティイベントへの誘いだった。
「『何をしているんだ? 日本のために、お前のアートでできることがあるだろう!』と激励されて、シンガポールで行われた3.11チャリティイベントへ招かれました」(同)
シンガポールへ旅立つまでの数日で何枚もの作品を描いたさとう氏だが、震災後の宮城ではライフラインも止まり、作業を進めるのは困難を極めたという。
「水道も止まっているなかで、どうやって描こうかと思いましたが、風呂に溜まっていた水を使ったりして、やろうと思えばどんな状況でもできるんですよね。一心不乱に描きました。その作品を抱えてシンガポールに行こうとしましたが、空港まで行くのにもとんでもなく時間がかかりました。今思い出しても、よくあんなに大変な状況のなかで行けたなと思います」(同)
シンガポールでのチャリティイベントは大成功し、さとう氏の作品は高値で売れた。売り上げは全額、震災復興のために寄付されたという。
「シンガポールでもライブペイントをしましたが、イベントに集まった方々の声援に心が熱くなり、最後は号泣しながら全身全霊で描いていました。忘れられないイベントです」(同)
アートの可能性を引き出す活動
シンガポールでのチャリティイベントに参加したさとう氏は、アートが人のためにできることがあるという手応えを感じ、その後も積極的にチャリティイベントに参加している。また、現在は障害を持つ子供たちのためのアートイベントも積極的に行っている。
「障害を持つ子供たちが、アートに触れることで何かを感じ取ったり、アートで表現できる可能性を引き出したりすることができるんじゃないかと思うんです」(同)
こういった志を聞いても、さとう氏のアートへの思いは非常に純粋だとわかる。だからこそ、さとう氏のアートは多くの人を魅了するのだろう。
さとう氏は今年、個展も開催し、国内外から多くの人が足を運んできている。アートペイントの世界を牽引するさとう氏は、世界に誇るべき存在だ。
(文=道明寺美清/ライター)