「ゆとり教育」が「失敗」とされたのは、端的に言えば国際学力調査で順位が落ちたから。でも、そもそも目先の点数を上げることが「ゆとり教育」の目的ではなかったはず。そう考えると、「ゆとり教育」が「失敗」したのは、国民の心の中に「テストでいい点数を取れるようになるのがいい教育である」という思い込みが強かったためだと言い換えられる。
同様に、「いい学校」という評価にも、思い込みがある。進学実績の良い学校ほど「いい学校」、難関大学にたくさん入る学校ほど「いい学校」という思い込みだ。その思い込みをベースにすると、東京大学に入れるための教育を行う学校が増える。最近の流行では医学部進学もその対象になる。「東大進学コース」「医学部進学コース」など予備校のコース名かと見まがうコース名が学校にも登場する。
その状況を私は『ルポ塾歴社会』(幻冬舎新書/2016年)に描いた。一部を抜粋する。
<「塾歴社会」とは、端的に言えば、日本の教育の平等性や公正さの中で発展してきた受験システムが「制度疲労」を迎えている証しであると私は思う。
受験システムそのものが、塾に完全に分析され攻略されている。なぜそのようなことが可能なのか。それは端的に、日本の学校制度、進学システム、学習カリキュラムが画一的すぎるからではないかと私は考えている。
「合格」という目的に向かってできるだけ効率的にアプローチしたいニーズに応えて存在する塾が、「回り道」を回避しようとするのは当然だ。批判される筋合いはない。
しかしそのような塾が過度に社会に対する影響力を持っているのだとしたら、それは塾のせいではなく、世の中全体が「回り道」を良しとしない効率至上主義に染まってしまっているためではないか。今私たちの社会に、「回り道」「無駄」「不純物」「遊び」など円環的作用をもたらすものの価値を認める知性・教養・文化が欠けている証拠と言えるのではないだろうか。
そのことこそ、「塾歴社会」が投げかける根本的な「問い」であると私は思う。>