武蔵の抵抗
一方、「塾歴社会」の到来を予見し、それに意識的に抗い続けてきた名門校がある。私立・武蔵高等学校中学校である。その元校長・大坪秀二さんは、1979年の共通一次導入の時点で「入試歴社会」という言葉を用いて私が言うところの「塾歴社会」的状況の到来を予言していた。そして校長の職を退いたのちの1987年には、東大合格者79人という実績がありながら次のような危機感を表明している。
<中学高校という段階の学校である武蔵にとって、この二十年余の間に進行してきた「受験競争社会」の激化は、今後の展開も含めて最大の問題点であるでしょう。(中略)小学校から大学まであらゆる段階での受験産業が、ここまで強大な力を持つことを、正直なところ、その当時は予測しませんでした。競争原理一本で成り立っている大学進学制度が長期にわたって固定されているために、その影響が年を追って下へ下へと及んだことや、産業構造の変化などの結果として、大企業を先頭に系列化された企業中心社会が固定化しつつあることなど、原因をあげればいろいろあるとは思います。(中略)皮肉なことに、世の中の流れに逆らって我々なりの努力をすればするほど、「名門進学校」という虚名も高くなり、そのために生じた負の影響は、私たちに新たな努力を強いました。だから、その点で見たこの二十余年間は、学校をあげての時流への抵抗であったとも言えます。
(中略)この国の教育社会の中で、武蔵がどのような役割を負わねばならないかについても、(中略)今後は、もっと明確な哲学を持つ必要に迫られるのではないかと考えます。(中略)武蔵自身の目標が個性的であればあるほど、制度上・経済上の新しい障害が生じる可能性も大きいかも知れません>
(「同窓会会報」掲載「校長退任の挨拶とお礼」1987年12月1日)
ただし共通一次が諸悪の根源というわけではなかろう。たぶん因果は逆だ。効率性と即時性を最優先する市場経済の原理と学歴社会が融合した結果、共通一次という結晶が生じたと見たほうが妥当である。結晶が生じたときにはもはや手遅れだったのだ。
その結晶はみるみる巨大化した。高校以下の教育までをも搦め捕った。結晶は流動しない。ルールは固定化された。そのルールに最適化されたさまざまな受験テクニックが開発され、受験産業が発展した。そしていつしか、本質的なまなびを経験してきた者よりも、より多くの受験テクニックを備えた者のほうが“勝ち組”になることが増えたのだ。
大学入試改革の意義
そこでルールを変えるため、大学入試改革である。「テストでいい点数を取れるようになるのがいい教育である」「いい大学に入れる教育がいい教育である」という社会的マインドセットが強固である限り、大学入試改革も「ゆとり教育」の二の舞いになりかねない。この国の教育のあり方を本気で変えようとするならば、制度を変えるだけでなく、国民のマインドセットを変革する必要がある。
その試金石として、「東大合格者数が減ってしまった学校はダメな学校なのか?」という命題はわかりやすい。そこで私は最近『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』(集英社新書)を著した。武蔵という学校の存在自体が塾歴社会のアンチテーゼであるからだ。いわば「武蔵vs.塾歴社会」である。武蔵という学校が子供たちに「東大合格」以上のものを必死で授けようとしていることがわかるはずだ。
武蔵を特別な学校だの最高の学校だのと持ち上げるつもりもない。ただ、武蔵の教育の価値が理解されないのだとしたら、結局は「東大至上主義」「偏差値主義」そして「塾歴社会」的教育観も変わらないだろう。同書を通じて私なりに、そのことへの警鐘を鳴らしたつもりである。その問題提起が、教育関係者だけでなく、一人でも多くの人に届くことを願う。この国の教育のために、未来の子供のために。
(文=おおたとしまさ/教育ジャーナリスト)