江戸時代以前は沼地だった兜町だが、江戸時代に入ると、江戸湾の埋め立てによって整備され、江戸湾と隅田川河口ににらみを利かせる重要海防拠点として機能することになる。当時、屋敷を割り当てられていたのが徳川水軍の有力者であったことからも、江戸幕府が兜町をいかに重要視していたかが分かるだろう。
ちなみに「兜町」の語源はいくつかあると言われているが、最も知られているものが、平将門の兜を埋めて塚にした「兜塚」に由来するというものだ。
さて、現在の東京株式取引所の敷地には丹後田辺藩の牧野家が屋敷を構えていたが、明治時代に入り、その屋敷を返納。土地は三井組、小野組、島田組に下げ渡されるが、1874年に小野組、嶋田組が破産し、結果すべて三井組のものとなる。
三井組は兜町の土地を事業用地として活用し、第一国立銀行、兜町米商会所、抄紙会社(後の王子製紙)などの設立に寄与。そして1878年には、第一国立銀行の所有家屋を購入した東京株式取引所が、兜町に開設。東京株式取引所は1883年に兜町内で一度移転し、1898年に現在の場所に移転している。
この東京株式取引所設立に尽力した人物の一人が、第一国立銀行の頭取だった渋沢栄一だ。兜町はまさに渋沢栄一ゆかりの地域であり、1888年には彼が兜町北側の日本橋川に面した土地に家を建てている。
なぜ、兜町に東京株式取引所が設立されたのか、その詳しい説明はぜひ本書を手に取ってほしいが、前述の渋沢栄一のほかに、実業家として横浜で生糸や米の相場で莫大な利を得、「天下の糸平」として名を馳せた田中平八や、行商から身を興し、後に鉄道王として君臨した若かりし頃の今村清之助たちの動きが大きな役割を果たしている。
現在に至るまでの証券市場の歴史を紐解いていくことは、日本の経済の歴史を知ることと同義といえる。
バブル期に熱狂を生んだ「株券売買立会場」の様子を克明に描いた終盤は、読み進めるうちに懐かしさを感じる読者も多いだろう。大量の注文による取引の混乱をいったん鎮める「笛吹き中断」の笛の音を思い出すのではないだろうか。
また、経済ニュースを普段見ない人でも、あの東京証券取引所の中にあるガラス張りの筒型のブース(マーケット・センター)を見たことがあるはずだ。
証券市場がなぜ生まれ、社会の中で、どのような役割を果たしてきたのか。実際に当時立会場にいた人も、証券のことをまったく知らない人も、この「節目」に今一度振り返ってみてはいかがだろうか。
(新刊JP編集部)
※本記事は、「新刊JP」より提供されたものです。