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篠崎靖男「世界を渡り歩いた指揮者の目」

オペラの職人・プロンプターとは?客席の目の前にいるのに“見えない”守り神

文=篠崎靖男/指揮者
オペラの職人・プロンプターとは?客席の目の前にいるのに見えない守り神の画像1
「Getty Images」より

「昨夜は全然寝られなかった。隣の部屋に泊まっている女性歌手が、ずっと壁に物を投げつけていたんだよ」

 オペラの本番当日、テノール歌手が眠そうな目をしながら僕に向かってぼやきます。隣の部屋の女性歌手は、前日の舞台リハーサルの際にまったく歌詞が飛んでしまったようで、僕たちも翌日の本番は大丈夫だろうかと心配するほどでした。ところが、本人は「リハーサルの回数が足りないんだ」「相手の歌手が悪いんだ」などと、自分のことは棚に上げて、ヒステリーを起こして部屋中のものを投げつけていたそうです。

 気の毒だったのは、隣の部屋にいたテノール歌手です。夜中じゅう隣から叫び声や大きな物音が聞こえたために、ただでさえ本番直前の緊張で眠りづらいにもかかわらず、十分な睡眠が取れなかったのです。

 当時、僕は大学を出たての若手指揮者でした。肩書こそ指揮者ですが、まだまだ本番の指揮など任せてもらえるわけはなく、アマチュア・オーケストラの練習の指揮をしたり、オペラのアシスタント指揮者をこなしつつ、ステージはもちろんホール中を走り回る毎日でした。そんななかで、ステージ上の歌手に対して、歌いだしの合図を出したり、歌詞を伝える仕事をしていました。

 結局、問題の女性歌手は、本番は見事に歌いきり観客の絶賛を浴びたので、お見事といえますが、こちらはハラハラドキドキでした。

観客からは見えない「プロンプター」という職人

 ちなみに、歌手に歌いだしの合図を出したり、歌詞を教える仕事を「プロンプター」といいます。簡単に言うと、出演者に対する「カンニングペーパー」のような意味で使われる言葉です。しかし、オペラの世界におけるプロンプターは立派な職業名です。オペラを観に行かれた方ならわかると思いますが、舞台の前面のど真ん中に、小さな目立たない箱のようなものが置かれています。客席から見ると単なる黒い箱ですが、舞台上からは中にいる人が見えるようになっており、この人こそ、プロンプターです。僕もそうであったように、若い指揮者の卵が必死でやることもありますが、実際には熟練のプロの仕事です。

 この小さな箱、通称「プロンプター・ボックス」は、人一人くらいしか入ることができない狭いスペースにもかかわらず、椅子、譜面台、照明灯、そして本番指揮者が映っているモニターが詰め込まれています。プロンプターは、指揮者が見えない位置にいる合唱団員に指揮をする役目もあります。指揮者とプロンプターの指揮がずれて見えると歌手たちが混乱するので、そのような時には、指揮者が映っているモニターを見ながらプロンプターも合わせて指揮をするのです。

 もちろん、譜面台の上には楽譜が置かれており、ソリスト歌手に出だしの合図のみならず、歌詞まで教えます。とはいえ、歌詞を全部教える時間はありませんので、次のような要領で行います。

 オペラではありませんが、皆さんがご存じの『花』の歌詞を例にします。

春のうららの隅田川
のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る
ながめを何にたとふべき

 大きな声で歌っている最中の歌手には、プロンプターの声は聴こえません。したがって、教えるチャンスは、歌詞と歌詞のほんの少しの合間という限られた時間だけです。冒頭の「春のうららの墨田川」であれば、歌いだしの前なので歌詞を全部教えることができますが、その後に続く、「のぼりくだりの船人が」の前には、「のぼりくだり」という具合に、出だしだけをさっと教えます。もっと時間がなければ、「のぼり」だけとなりますし、その後も、「かいの」「ながめ」などと続いていきます。

 ところがある時、歌手から「全部でなく、教えてほしい時にだけ教えて」と言われた時には困ってしまいました。超能力者ではないので、歌手が歌詞を忘れる前に気づくことは不可能です。しかし、不思議なことに熟練したプロンプターは、なんだか雰囲気でわかるようでした。プロンプターが最初の歌詞をすべて叫ばなくても、歌手は間違えることなく、しかも安心して歌っているのが不思議で仕方がありませんでした。

 舞台を見ていてひとつ気づいたのは、歌手が歌詞を忘れそうになった時には、プロンプターをじっと見つめていることです。いくら堂々たる主役を担っている名歌手であっても、目だけは心細いような、懇願するような様子をしていることがあります。そこで、さっと次の歌詞を歌手に伝えると、再び堂々と歌い続けるのです。

 オペラの主役歌手ともなれば、何時間も歌いっぱなしです。歌詞は全部覚えておかなくてはならず、さらに楽譜も覚えてオーケストラに合わせて歌わなくてはならないという超高難度なことをこなしています。もちろん、ずっと出ずっぱりではありませんが、オペラは最低でも2~3時間はかかるので、たとえすべて間違いなく覚えていても、演出家によって違う演出や演技も同時に覚えて、正確にこなさなければなりません。そのため、冒頭の女性歌手のように、頭が真っ白になることも当然のごとくあります。そんな時に、プロンプターは頼もしい存在です。

 プロンプターをこなすなかで、とても難しかったのは、自分の声が観客席に聴こえないように、それでいて歌手にはっきりと伝えることでした。たとえば、オーケストラの音量が小さければ声が歌手に届きやすい半面、客席にも聴こえてしまうリスクがあります。反対に、オーケストラの音が大きいときには、リスクぎりぎりの大きな声で叫ばないと歌手の助けにはなりません。

 そのようなことを瞬時に計算し、あくまでも黒子に徹するのが、プロフェッショナルな仕事師で、歌手の守り神であるプロンプターなのです。ちなみに、若き日の僕などは、オーケストラや歌手の盛り上がりに合わせて自分も興奮してしまって声がどんどん大きくなり、先輩たちから「客席に聴こえているよ!」と注意されてばかりでした。

 もちろん、プロンプター・ボックスには出入り口があるので、いつでも出入りは可能です。ところが、ある国のオペラ劇場は、設計士がうっかりと出入り口をつくり忘れたそうです。かわいそうなのは、その劇場のプロンプターです。観客が入場する前に、こっそりと舞台の上からボックスに潜り込み、上演中は休憩中もトイレに行くことさえできず、終演後に最後の観客が帰るまで何時間も小さなプロンプター・ボックスに入ったままだったという話を聞いたことがあります。

 たとえばワーグナーのオペラには、休憩時間を除いた演奏時間だけでも4時間半くらいかかるものもあります。そんなオペラをこの劇場で公演する際には、プロンプターはさぞかし大変だったことでしょう。
(文=篠崎靖男/指揮者)

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

篠﨑靖男/指揮者、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師

 桐朋学園大学卒業。1993年ペドロッティ国際指揮者コンクール最高位。ウィーン国立音楽大学で研鑽を積み、2000年シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞し、ヘルシンキ・フィルを指揮してヨーロッパにデビュー。 2001年より2004年までロサンゼルス・フィルの副指揮者を務めた後ロンドンに本拠を移し、ロンドン・フィル、BBCフィル、フランクフルト放送響、ボーンマス響、フィンランド放送響、スウェーデン放送響、ドイツ・マグデブルク・フィル、南アフリカ共和国のKZNフィル、ヨハネスブルグ・フィル、ケープタウン・フィルなど、日本国内はもとより各国の主要オーケストラを指揮。2007年から2014年7月に勇退するまで7年半、フィンランド・キュミ・シンフォニエッタの芸術監督・首席指揮者としてオーケストラの目覚しい発展を支え、2014年9月から2018年3月まで静岡響のミュージック・アドバイザーと常任指揮者を務めるなど、国内外で活躍を続けている。現在、桐朋学園大学音楽学部非常勤講師(指揮専攻)として後進の指導に当たっている。エガミ・アートオフィス所属

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