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南スーダンは「戦場」だったのか? 日報隠蔽問題を通して見える既視感

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南スーダンは「戦場」だったのか? 日報隠蔽問題を通して見える既視感の画像1※画像:『日報隠蔽』(集英社刊)

 どこまでが嘘で、どこからが本当なのか。

 さまざまな立場からさまざまな発言が飛び交う中で、どこまで私たちは真実に近付けているのだろうか。

 2017年7月28日、稲田朋美防衛大臣(当時)が南スーダンPKO(国連平和維持活動)日報隠蔽問題の責任を取り、防衛大臣を辞任をした。将来の首相候補とさえ言われた安倍晋三総理大臣の“秘蔵っ子”は、追われるようにして防衛省から去っていった。

 しかし、国民のほとんどは大枠としての「日報隠蔽問題」を知っていたとしても、実際に南スーダンの現場で何が起こり、自衛隊がそこで何を見ていたのか知らないのではないか。

 日本と南スーダン、この2つの地で起きていたことを同時並行で見ていくと、日報隠蔽問題の本当の姿が少しずつ見えてくる。そして、そこにはPKO協力法という法律、「平和主義」を謳う日本という国が抱える矛盾の根深さを知ることができる。

 『日報隠蔽』(集英社刊)――日本では、「平和新聞」の編集長でありジャーナリストの布施祐仁氏が日報隠蔽問題で政府を追及し、アフリカでは当時、ヨハネスブルグ支局に駐在していた朝日新聞記者の三浦英之氏が南スーダンで起きていることをカメラのフィルムに焼き付ける。

 2人のジャーナリストが、「南スーダン日報隠蔽問題」の真相に迫った一冊が本書である。

 2011年11月、日本は国連からの要請を受け、独立したばかりの南スーダンの「国造り支援」として自衛隊を派遣する。しかし、2013年12月に内戦が勃発し、その後は武力紛争から一般市民を保護する「文民保護」に中心任務が変わる。

 誰もが知るように、日本は戦争と武力の放棄、交戦権否認を憲法に記す国である。PKOの活動任務は「停戦・休戦の監視」と「平和維持」の大きく2つに分かれるが、状況によっては自衛のための最終手段として武力行使が行われることもある。そのため、日本は「参加5原則」という5つの参加の条件を設け、例えば停戦合意が破られた場合はすぐに撤収できるようになっている。

 2013年に起きた内戦の要因はサルバ・キール大統領と、副大統領職を解任されたリエック・マシャール氏の権力・石油利権争いである。泥沼化した末に、2015年8月に和平協定が結ばれる。しかし、それはあまりにも脆弱な協定だった。

 そして、2016年7月、首都ジュバで大規模な衝突が発生。当時、ジュバでは約350人の陸上自衛隊の施設部隊が活動していた。このような状況でも日本政府は「南スーダンで武力紛争が発生しているとは考えていない」という見解を示していたのである。

 もしかしたら、30代後半以上の人ならば、本書を読んだときにある「既視感」を抱くかもしれない。

 それは1993年、国際平和協力隊員としてカンボジアに渡った警察官の高田晴行氏が身元不明の「何者か」に襲撃され、殺された事件である。この時も日本政府は「停戦合意は崩れていない」という見解を示し続けていたが、2016年に放送されたテレビ番組・NHKスペシャル『ある文民警察官の死』でも明らかになっているように、停戦合意はほぼ崩れ、内戦状態だったという。

 日本は、25年前の悲劇を忘れてしまっていたのだろうか。

 布施氏が開示請求をしていた2016年7月の自衛隊の日報。それは、ジュバで大規模な武力衝突があった期間だ。当初は「文書不存在」とされていたが、防衛省・自衛隊幹部が「隠蔽」していた事実が発覚。稲田氏は最後まで「公表したのだから隠蔽ではない」というロジックの見解を示していたが、防衛大臣を辞することになった。

 さて、ここまでは日本の話である。では、実際に南スーダンでは何が起きていたのだろうか。

 三浦氏が現地で起きていたことを伝える文章の中に、いくつかの大きな動揺が見てとれる。

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