美空ひばり、トリビュートアルバム発売で再注目…あの伝説のステージをプレイバック
あなたにとって「懐かしい」とはどんな情景でしょうか? 1970~90年代の「懐かしい」を集めたのが「ミドルエッジ」。あなたの記憶をくすぐる「懐かしい」から厳選した記事をお届けします。
今回のテーマは、美空ひばりの不死鳥コンサート。平成元年に亡くなった昭和歌謡界の女帝が、命を削ってまでこだわった伝説のステージについて振り返っていきたいと思います。
後世に鮮烈な印象を残した不死鳥コンサート
「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに」
これは、1989年1月8日、元号が昭和から平成に移り変わったその日に美空ひばりが残した短歌です。その約半年後の1989年6月24日に還らぬ人に。以降、昭和と共に生き、平成の到来と共に去っていったその生き様ゆえ「昭和を代表する歌手」として語られることになります。さらに、来る5月29日のひばりの誕生日には、トリビュートアルバム『美空ひばりトリビュート Respect HIBARI -30 years from 1989-』が発売されます。同作では、松山千春、水谷豊、徳永英明、河村隆一、一青窈ら11組。没後30周年となる今年、あらためて美空ひばりが評価されそうです。
ひばりが昭和女性歌手の象徴として語られる背景には、名曲の多さ、第一線で活動した期間の長さもさることながら、最晩年に残した印象が強いこともあります。まるで蝋燭の炎が燃え尽きる瞬間に眩い閃光を放つかのように、あまりにも鮮烈だったことも間違いなく関係しているのでしょう。
病魔に蝕まれ、満足に歩ける状態になかった
後に伝説として語り継がれるコンサート『不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって』通称、「不死鳥コンサート」が開催されたのは1988年4月11日のこと。
しかし、ひばりは87年4月、全国ツアー四国公演の最終日に体調不良を訴え、搬送先の病院で「重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症」と診断されていました。主治医から「仕事を引退して静養に努めなければ命にもかかわる」と宣告されていました。しかし、手紙にて「歌うことこそ私の宿命です」と訴えこれを拒否。87年8月、入院から104日ぶりに退院したものの、一人で歩くことすらままならない状態だったといいます。
それでも、同年10月に新曲「みだれ髪」のレコーディングに参加。12月には同曲のレコードをリリースして芸能活動への復帰を果たします。主治医からコンサートで歌う許可がおりたのは、翌年88年2月のこと。けれども、足腰の痛みは依然としてひどく、相変わらず長時間立っていられない状態。結局、東京ドーム公演当日まで快方に向かうことはありませんでした。
2時間半のコンサートで、計39曲を歌い切る
しかし「歌こそ宿命」のひばりは、ファッションデザイナー・森英恵が手掛けた“不死鳥衣装”を身にまとい、決死の覚悟でステージへ。中村メイコ・森光子・浅丘ルリ子・雪村いづみ・島倉千代子ら、芸能界の友人たちも見守る中、2時間半・計39曲を熱唱。コンサートのラストには、最後の力を振り絞り、100mの花道を歩ききるという演出をファンの声援に応えながらやりきって、舞台そでにはけた瞬間、スタッフの腕の中に倒れ込んだそうです。
その後、89年1月11日に、人生最後のシングル「川の流れのように」をリリースし、同年3月23日には「療養専念による全国ツアーの中止、さらに歌手業を含めた芸能活動の年内休止」、そして、6月24日に惜しまれつつも、52歳の生涯に幕を閉じた美空ひばり。命果てる瞬間のその閃きは、昭和を超えて平成が終わろうとしている今もなお、色褪せることはありません。
この連載では次回以降も皆さまの脳裏に「懐かしい」が蘇りそうな記事を提供して参ります。「こんな記事は?」「あのネタは?」なんてお声も、ぜひお待ちしておりますので、よろしくお願いいたします。
(文・構成=ミドルエッジ)
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