白鵬、朝青龍もこの人なしでは存在しなかった!?…… 元祖「外国人力士」高見山大五郎の功績
あなたにとって「懐かしい」とは、どんな情景でしょうか? 1970~90年代の「懐かしい」を集めたのが「ミドルエッジ」。あなたの記憶をくすぐる「懐かしい」から厳選した記事をお届けします。
今回のテーマは、高見山大五郎。今日、当たり前のように相撲界で活躍している外国人力士。そのパイオニアとして道を切り開いた、高見山の軌跡を振り返っていきます。
かつて数多く活躍していたハワイ州出身の力士
先日幕を閉じた大相撲初場所は、モンゴル出身力士、玉鷲が初優勝を遂げました。言わずもがな、西の横綱・白鵬、東の横綱・鶴竜をはじめ、モンゴル人力士の活躍が目立って久しい相撲界。しかし、今から20年ほど前まではハワイ州出身の外国人力士の天下でした。
ハワイ州出身の相撲取りが台頭した背景には、大相撲の海外巡業が関係しています。今でこそあまり行われなくなった海外巡業ですが、1960年代前半から70年代後半にかけては頻繁に実施されていました。その巡業先がハワイだったのです。
当時、現地を訪れた親方たちは、ハワイ人が持つ身体能力の高さ及び体格の良さに着目し、自分の部屋を強化すべく有望株を次々とスカウトしていったといいます。その代表格が、本名ジェシー・ジェームズ・ワイラニ・クハウルアこと、高見山大五郎でした。
初めての外国籍の関取となった高見山
1944年にマウイ島で生まれたジェシー少年。アメリカンフットボールの選手として活躍していた高校時代に、部活のコーチから「下半身が貧弱」と指摘されたのをきっかけに、当時ハワイの日系人の間で人気だった相撲を練習メニューに取り入れるようになり、一時期は、現地のアマチュアチームにも所属していたといいます。高校卒業後、州兵になろうとしていたところを、高砂親方から「5年間、衣食住の面倒を見る」と口説かれ、悩んだ末、64年に角界入り&来日を決意。
最初のうちこそ慣れない環境に戸惑うことが多かったものの、徐々に日本の水に慣れ、初土俵から3年後の67年三月場所に十両へ昇進。その後、関脇にまで到達し、72年には、外国人力士として史上初の優勝も果たしています。
“CM界の横綱”! お茶の間の人気者に
高見山といえば、その実力はもとよりコミカルなキャラクターで日本のファンの心を掴んだことでも知られています。そのため、テレビコマーシャルへの出演数は突出しており、“CM界の横綱”と呼ばれたことも。なかでも丸八真綿のCMで披露した、しゃがれた声での「2倍! 2倍!」のフレーズは有名で、今でも高見山の代名詞として語られているのはご存じの通り。
ほかにも印象に残るCMとしては、日本船舶振興会及び日本防火協会の「戸締まり用心~♪、火の用心♪」と子どもたちと防災・防犯を訴えるコマーシャルがあった。これは曜日ごとに異なるバージョンがあったため、懐かしく感じる方も多いはず。
高見山が切り開いた「外国人力士」の出世道
また、高見山の功績はそれだけにとどまらず、身長187cm・285kg(最重量時)の巨体で“角界の黒船”の異名を取った後の大関・小錦を自らスカウトして育てたり、引退後は親方となって、史上初の外国人横綱となった曙を自身の部屋へ入門させたりと、育成面からも外国人力士の道を切り開いてきました。かつては物珍しかった外国人力士たちが、当たり前のように番付を賑わせている今日の相撲界における礎は、高見山大五郎によって築かれたと言っても過言ではないでしょう。
モンゴル旋風からモンゴル人力士が席巻している昨今の角界。2019年はどのようになるのか注目していきたいところです。
この連載では次回以降も皆さまの脳裏に「懐かしい」が蘇りそうな記事を提供して参ります。「こんな記事は?」「あのネタは?」なんてお声も、お待ちしておりますので、よろしくお願いいたします。
(文・構成=ミドルエッジ)
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