松井秀喜をヤンキースに入れた敏腕通訳、自殺未遂後に性別適合手術→女優として再起
「人生100年時代」と政府が掲げ、高齢者の雇用促進、リカレント教育などに力が注がれる。一方で早期退職を募る大手企業も多く、終身雇用制度は崩壊しつつある。そんな現状に不安を感じる方も多いだろう。しかしながら、人生はあきらめなければ、いつだって逆転できるのである。本連載では、どん底人生からあきらめずに逆転した経験を持つ人を紹介していく。
都内の某ライブハウスで、出演中のバンドの女性に目を奪われた。その長身で細身の女性ギタリストの演奏は、心に響いた。メンバー紹介で「異色のギタリスト、KOTA! メジャーリーグで渉外のスペシャリスト。数多くの日本人メジャーリーガーを誕生させた」という経歴を聞き、なんとバイタリティのある女性かと感嘆した。しかし、ライブの後、KOTAはトランスジェンダーで、性転換手術を受けて女性になったと知り、さらに驚いた。そんなKOTAに、“逆転人生”を聞いた。
過酷な幼少期
1988年に福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)へ「渉外・通訳担当」として入団してから約20年もの間、野球界で活躍し日米野球の架け橋として活躍したKOTAの幼少期は過酷なものであった。
KOTAは時事通信社の海外特派員だった父と専業主婦の母のもと、東京に生まれた。日本と海外で引っ越しは30回以上に上った。
「4才で東京・上北沢から英ロンドンのウィンブルドン・パークへと移りました。当時の現地は、日本人は珍しく、最初は差別も強く大変でしたが、なんとか溶け込み1年半住んだ頃、父が国連担当となり米ニューヨーク(NY)へ移りました」(KOTA)
ロンドンの下町の英語とNYの英語は大きく異なり、NYでの最初の半年は子供ながらに気持ちが荒れたという。ようやくNYの英語にも慣れた頃、再び東京に戻ることになった。その時、KOTAは小学2年生だったが、日本の学校は海外生活が長いKOTAの受け入れに難色を示し、1年生として入学することになった。
「小学校の校長から『浩太くん、“白い”の反対は何』と質問され、私は『白くない』と答えたのです。当時の日本では規格外の答えとされたようです」(同)
なんとも閉ざされた世界だと感じる。小学1年生からのやり直しで始まった日本の生活も、わずか半年で父がインド・ニューデリーに転勤となる。
「ニューデリーでは、アメリカ大使館の中に日本人学校があり、1~6年生全員で37人と少人数でした。おかげでみんな仲が良く、朝から晩まで外で泥んこになって遊びました。大阪体育大学を卒業した先生が赴任し、インドで大阪弁を覚えたっていう、笑い話みたいな経験をしました」(同)
日本が札幌オリンピックに沸く頃、小学4年生で日本に戻り、ようやく落ち着いて生活できるようになった。しかし、KOTAが中学2年生の時、またもや父の仕事でアメリカへ。この時、英語を忘れかけていたKOTAは、2学年下のクラスに転入することになった。環境の変化と思春期の葛藤からKOTAは、荒れに荒れた。
「グレましたね。仲間とつるみ、多くの悪いことをしました。そのため、ハイスクールの2年目に退学処分となりました。そんな私の根性を叩き直すために、父は私を南カリフォルニアの軍隊学校『アーミー&ネイビー・アカデミー』に入学させました」(同)
当時、アーミー&ネイビー・アカデミーはアメリカ全土から札付きのワルが集まっていたような状況で、性的虐待を受けるなど過酷な日々を過ごした。そんななか、野球とアートの時間が心の救いになり、いつしかアートを志し、卒業後はNYのパーソンズ美術大学へ進学し、アートに情熱を注いだ。そんなKOTAに思わぬオファーが飛び込んできた。
アートディレクターとしてNYセレブの道を歩み始める
パーソンズ美術大学で嬉々としてアートを学んでいた3年生の時、電通からスカウトされ、アートディレクターとして現地採用された。当時、世界中にオフィスを構えシェアを広げていた電通だが、現地のコピーライターと日本人から出向したスタッフとのコミュニケーションがうまくいかず、十分な仕事ができていない状況にあった。そこで、完璧なバイリンガルで、かつアートに精通した人材を求め、KOTAに行き着いた。アートディレクターとして働く毎日は、KOTAにとって刺激的だった。ミキモトとキヤノンの広告を担当していた時、運命の女性・スーザンに出会い、2年の同棲生活を経て結婚した。その結婚によって、KOTAは“真の自分”を知ることとなる。
「実は、私は祖母の生まれ変わりだと小さい頃から信じていました。本名の『浩太』は、祖母がつけてくれた名前です。丈夫ではなかった祖母が、東京中の鑑定士を回って考え抜いてつけてくれました。ところが、社会的地位も高かった祖父の派手な女性関係に心を痛め、私が生まれる3日前に自殺したんです」
物心つく前の言葉が拙い頃から「自分はおばあちゃんの生まれ変わりだよ」と言うKOTAに、周りの大人たちも驚いていたという。実は、KOTAは早い段階で「自分は、本当は女である」と、自分の性と心が一致しないことに気づいていた。しかし、そんなKOTAが一目で“運命の人”だと思ったのは女性だった。KOTAはスーザンに迷いなく自分の心の問題を話した。すべてを聞いたスーザンは、KOTAを理解してくれた。スーザンもKOTAを運命の人だと感じていたのだ。スーザンと精神的に深く結ばれた関係に、KOTAはようやく自分の居場所を見つけたような気もしていた。そのままアートディレクターとしての道を進めば、NYセレブの仲間入りは確実だった。そんな華やかな中にいても、KOTAは「何かが違う」と思い始めていた。
ちょうどその頃、KOTAの父は南海ホークスを買収したばかりのダイエーに勤めていた。1988年、その縁でKOTAはダイエー・中内功会長から直接声をかけられ、通訳兼渉外担当となることを打診された。思春期には野球に打ち込んでいたKOTAは「これだ!」と感じ、アートディレクターを辞めて福岡ダイエーホークスに入団した。
ダイエーホークスでの最初の仕事は、2軍選手のマイナーリーグ、サリナス・スパーズへの野球留学に同行し、通訳と同時に選手たちのマネジメントも行うことだった。KOTAもユニフォームを着て選手と一緒にトレーニングを行った。KOTAは常に選手に寄り添い、活躍を支えた。そのマイナーリーグのオーナーが、現在アメリカスポーツ界で交渉代理人(エージェント)として活躍する団野村氏だった。KOTAは団野村氏から多くのことを教わったという。その後は、1軍つきの通訳となり、ダイエーホークス本拠地の福岡に移った。妻のスーザンはNYで仕事を続けていたため、KOTAが福岡とNYを行き来する結婚生活となった。
日米野球の架け橋となる
ダイエーホークスでの経験で国際渉外に手応えを感じたKOTAは、その後、西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)でも渉外担当をこなし、野球界で一目置かれる存在となった。当時、国際渉外を行う人で、KOTAの右に出る人材はいなかった。KOTAの仕事を語る上で触れなければならないことがいくつかある。そのひとつが、NYヤンキース入りを果たした故・伊良部秀輝だ。
「以前から懇意にしていただいていた団野村さんから『ヤンキースで働く気はないか?』って誘われていたのですが、当時、団さんは野茂英雄をロサンゼルス・ドジャースへ入団させることに成功していて、次は伊良部をヤンキースに入れるということを画策していたんです」(同)
団野村氏からの誘いを受け、KOTAはヤンキースの環太平洋業務部長に就任し、伊良部の入団の準備を進めた。環太平洋業務部長として、米野球の発展のためスカウトなども担当する計画だったが、パーソナリティーが強く扱いにくい伊良部の通訳を任され、伊良部に振り回されることになる。
「伊良部は繊細な上、ほかの外国人選手に馴染めず、私は通訳として多くの時間を共に過ごしました。メジャーデビュー戦から2勝したものの、その後の成績は周囲の期待に応えられず、伊良部のメジャーでの夢は終わりました」
伊良部は、ある時は降板の際にガムを口から吐きだし、それが観客に向けてツバを吐いたと間違われて問題になったり、日本メディアに挑発的な態度を取るなど“トラブルメーカー”扱いされた。それらがすべてKOTAの責任とされ、ヤンキースの環太平洋業務部長を解雇された。メジャーのドライな一面が表れるエピソードだ。
「あの時は荒れましたね。チームのため、伊良部のため、全力で取り組んでいましたから、悔しくて気持ちのぶつけどころがなく、酒に逃げました。これでもかっていうほど飲んで最悪の二日酔いになり、その翌朝に吸ったタバコの不味さに唖然として、それまでヘビースモーカーだったのですがタバコをやめました」(同)
失意のどん底にいたKOTAを、団野村氏がLA(ロサンゼルス)に呼び寄せた。
「団さんの下で選手の代理人を務めました。その後、NYメッツにスカウトされ、野茂、吉井の通訳としてメッツに入団しました」(同)
KOTAが入団した頃のメッツは、野球は強かったが、グラウンドを出ると、まとまりがないチームだった。ところが、KOTAが通訳をしている間にチームワークも改善され、本当の意味での強いチームへと成長した。
この時までのKOTAの仕事は、選手と同じユニフォームを着て、トレーニングも一緒にこなしながら通訳を務めていた。だが、読売ジャイアンツ(巨人)から重要なポストを任され、現場を離れることになる。
現場から離れ、NYのオフィスで働く日々
2002年、KOTAは巨人の一員となり現場を離れた。
「NYにオフィスを開いてくれと言われ、NY52丁目にオフィスを構えました。仕事は、ヤンキースと巨人の業務提携。そして、松井秀喜のヤンキース入団に向けて、すべては綿密に計画されていました。02年の日米野球後に松井がヤンキースに入団。04年にヤンキースの日本開幕戦で松井が凱旋帰国。そして06年のWBC(ワールドベースボールクラシック)。その一連の流れを成功させるため、昼はオフィスで仕事、帰宅後は東京が朝を迎えるので、夜中に東京と連絡を取りながら仕事。1日24時間、常に仕事でした」(同)
「松井は素晴らしい選手だ」とKOTAは言う。松井をヤンキースに入団させることは自分の使命とさえ感じていた。尽力の甲斐あってすべてが計画通りに進み、WBCでは日本が優勝した。優勝記念のシャンパンファイトが行われた後、部屋に戻ったKOTAは、ある決意をする。
すべてを捨て、ゼロからの出発
シャンパンファイトの後、鏡に移る自分に「もう嘘をつくのはやめよう」と語り、女性になる決意を固めた。自分は祖母の生まれ変わりだと信じていたKOTAの心は、生まれながらにして女性だった。スーザンという運命の人に巡り会えたものの、男性としてではなく人として結ばれていた。野球界で国際渉外、通訳として活躍しながらも、いつも心の奥に本当の自分を隠していた。WBCの日本優勝を見届けたKOTAは、達成感と共に自分の中の真実が音を立てて弾けた。「女性になる決意」を、愛するスーザンに打ち明けた。
「私は、女性になってもスーザンを愛する気持ちは変わるものではありませんでした。しかし、スーザンは受け入れてくれませんでした。その時から拒絶されてしまいました。それに、打ち明けた時、スーザンには愛人がいました。私は仕事で忙しく、スーザンに寂しい思いをさせていたのだと思います」(同)
KOTAを襲ったのは、スーザンに愛人がいたというショックだけではなかった。
「スーザンの愛人に、お金まですべて持っていかれました。気づいた時には、私はすべてを失い、本当にゼロになってしまいました」(同)
そしてKOTAは、自殺未遂を起こしてしまう。
「あの時は目の前が真っ暗になり、死のうと思いました。でも死に切れず、保護されてレノックス・ヒル病院の隔離病棟に入れらました。なぜ精神科かというと、カウンセリングのなかで私がトランスジェンダーであること、それまで起きたすべてを話したからです。実は、ホルモン治療は04年から始めていました。ホルモン治療は体に大きな負担をかけるばかりでなく、精神的なバランスも崩しやすいという側面があります。そのため、すぐには病院から出してもらえませんでした」(同)
病院はKOTAに対して手厚い保護が必要と判断したようだ。運動療法や音楽療法、カウンセリングなども重ね、4週間の加療を経て退院が許可された。KOTAは女性になることにまったく躊躇がなかったという。むしろ、ホルモン治療を進めるにつれて、体も心も楽になっていく実感があった。
「それまでは先が見えず、手枷、足枷がついているような状態だったのが、雲が晴れるように目の前が開け自由になったような気持ちでした」(同)
性別適合手術を受けて女性へと生まれ変わったKOTAは08年、野球界からも身を引き、それまでのすべてに別れを告げて帰国した。
日本に戻ってからのKOTAは、まさにゼロからのスタート。一度は両親のいる実家に身を寄せたが、厳格な父はKOTAを認めることができず、追い出されてしまう。財産も失っていたため、絶望に打ちひしがれるところかと思いきや、KOTAは違った。
「ちょうどその時、高田馬場で住み込みスタッフを募集しているライブハウスがあり、迷わず飛び込みました。NYセレブのような生活からは想像もしなかった状況でしたが、自分に正直に生きることができて幸せでした。以前から憧れていた女優業にも挑戦するチャンスに恵まれ、本当に新たな人生が始まりました」(同)
10年には映画監督の市川徹氏と出会い、映画『さくら、さくら -サムライ科学者 高峰譲吉の生涯-』(アステア)に、主人公・高峰譲吉の義母、メアリー役で出演した。
「実は、高峰錠吉も義理の母メアリーも、私が自殺未遂の後に保護されたレノックス・ヒル病院で亡くなっていたことがわかり、強い運命を感じました」(同)
野球界から一度は遠ざかっていたKOTAだが、ギタリストや女優として活動するなかでブログを始めたところ、かつての同士たちがKOTAを見つけ、今も交流は続いているという。
「自分が野球界でやってきたことに意味があったと自信を持てたのは、私が“女性・KOTA”になったことを知っても、野球界で誰一人として私から遠ざからなかったからです。むしろ、『KOTA、いいじゃん!かっこいいよ』と応援してくれています」(同)
両親との関係も修復でき、母の死後に、介護が必要となった父の世話をして最期を看取れたという。現在は、ギタリスト、女優のほか、講演活動、ボランティア活動など、幅広く活躍している。また、自身のトランスジェンダーの体験からLGBT運動にも積極的に取り組んでいる。
「私自身は幼少期、美輪明宏さんの存在に大きな希望を感じました。また、女性になった後、共通の知人を介しピーターさんとも交流ができ、励まされたことも多くあります。多様な個性が認められるようになった現代ではありますが、まだまだLGBTへの理解は十分ではありません。マイノリティーだと悩んでいる人に、私を知って欲しいと思います。そして、何かを感じていただければという思いで、これからも私の人生を発信していきます」(同)
目を輝かせながらそう話すKOTAは、これからの日本に新しい価値観生み出す存在となるだろう。
(文=道明寺美清/ライター)