渡辺氏は2013年5月、日本経団連副会長の任期が終わる。首都高速の会長就任は、トヨタの相談役を辞める布石なのだろうか。これで豊田章男社長(56)は、奥田碩氏(79)、渡辺氏という、目の上のたんこぶである元社長(奥田氏は元会長でもある)を切るわけだ。名実ともに独裁体制を確立する。
11年2月、トヨタ社内を凍りつかせるトップ人事があった。豊田社長が前社長の渡辺副会長の首を切ったのだ。トヨタの歴代社長は、会長に昇格するのが慣例だ。張富士夫会長(75)が相談役に退き、渡辺副会長が会長に昇格するのであればまだしも、渡辺氏の先輩である張会長は社長として続投。渡辺副会長だけがお役御免とばかりに相談役に飛ばされた。役員の数を減らしてスリム化と若返りをはかると説明されたが、これはあくまでも表向きの話。はじめに渡辺外しありきのトップ人事だった。
渡辺捷昭氏がトヨタの社長に就任したのは05年8月のことだ。社長時代は、かっかくたる実績をあげた。08年3月期の連結営業利益は、2兆2703億円と過去最高益を更新。世界市場での新車販売台数は897万台となり、永らく王者として君臨してきた米ゼネラル・モーターズ(GM)を抜き、世界一に躍り出た。渡辺氏は米タイム誌の「最も影響力のある100人」として05年と07年に選出されている。トヨタの輝かしい歴史を築いたトップリーダーであった。
だが、08年秋のリーマン・ショックで評価は暗転する。金融危機で車の販売台数が激減。トヨタの09年同期の最終損益は58年ぶりとなる4369億円の赤字に転落した。絶叫マシーンさながらの業績の急降下に、“トヨタ・ショック”という言葉が生まれた。
経営責任を問われ、渡辺氏は09年6月に創業家の御曹司、豊田章男氏に社長の椅子を譲って副会長に退いた。身の丈を超えた拡大路線を突き進み、09年に1000万台超の販売目標を掲げブレーキを踏むのが遅れたというのがその理由だ。後出しジャンケンの負けに近いかたちで経営責任を問われ、渡辺氏はA級戦犯となった。
渡辺外しに、ことのほか熱心だったのは章男氏の父親である豊田章一郎名誉会長(87)だった。09年2月章一郎名誉会長は、豊田家の出身母体である豊田自動織機の創業の地に、グループの幹部400人を集めた席で、渡辺社長(当時)に「君はこれまで何度過ちを犯したか」と尋ね、あろうことか、「増収増益に熱中するあまり、会社をGMやクライスラーの真似に走らせた」と非難したのである。あまりの剣幕に居並ぶ経営幹部は顔を引きつらせ、会場の空気は凍りついた、といわれている。
章男・新体制が発足した直後から、トヨタは猛烈なバッシングに遭った。09年夏頃から米国で空前絶後のリコール騒動に巻き込まれた。10年2月には、章男社長が米下院の公聴会に呼びつけられ“トヨタ叩き”はピークに達した。
御曹司の章男氏がリコール騒動で吊るし上げに遭ったことで、創業者一族と旧経営陣の間で、リコール問題の責任のなすり合いが始まった。章男氏ら新しい経営陣は「渡辺氏が副社長時代に奥田碩会長の命令で推進した強引な原価低減活動がリコール問題の原因となった」と非難した。「3年間で主要部品のコストを30%、金額にして1兆円近く削減をしたが、それが下請け企業への無理な要求となり品質管理を犠牲にした」という。
これに対して旧経営陣は激しく反発。「トヨタが世界最高の自動車会社になるまでは何も言わず、問題が発生したとたんに責任を転嫁している」と主張した。「今回の危機は、準備ができていないまま社長になった章男社長が作り出した危機だ」と反撃した。
トヨタの内紛を報じたのは米ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)の10年4月14日付の記事だった。
WSJによると「豊田社長は仲介者を通じて渡辺副会長に退任を求め、関連会社の経営に当るよう提案したが渡辺副会長はこれを拒否。元社長の奥田碩相談役は(このような降格人事をする)豊田社長こそ辞めるべきだと述べた」という。
同誌は具体的な社名こそあげていない。だが、章一郎名誉会長は渡辺副会長を豊田自動織機の会長に押し込もうとしていたという。自動織機は豊田家の始祖、発明王の豊田佐吉翁が起こした名門企業とはいえ、世界のトヨタとは比べるべくもない。渡辺氏はこの降格人事を拒否した。
さらにトヨタが出資する富士重工業の会長への転出説も取り沙汰された。トヨタを世界一の自動車メーカーにしたと自負していた渡辺氏にとって、到底、容認しがたい人事だった。プライドを傷つけられた渡辺氏は「外資系自動車メーカーに移籍するのではないか」といううわさまで流れた。
渡辺包囲網は絞られていた。11年6月の株主総会で渡辺氏は、副会長を更迭され相談役に退いた。
渡辺氏は現在、日本経団連の副会長を兼務している。11年夏、原発事故を起こした東京電力の資金繰りを支える原子力賠償機構の理事長に、渡辺トヨタ自動車相談役を据える人事が水面下で進行していた。だか、「待った」をかけたのは章男社長ら現経営陣だった。トヨタブランドに傷がつくことを懸念したという。同じ理由で、元経団連会長だった奥田碩相談役が東京電力会長に就く人事も拒否した。
大本命だった奥田氏がトヨタの反対で潰れたため、東電処理を仕切っていた民主党の仙谷由人政調会長代行のチームからは「日本の財界も地に墜ちたもの」との怨嗟の声が漏れた。奥田氏は今年4月、国際協力銀行の総裁に就任し、トヨタと決別した。
渡辺氏は13年5月、経団連副会長の任期が切れる。それに伴い、トヨタ自動車相談役の肩書きが外れるのは確実とみられている。これで豊田社長と渡辺前社長の確執も終焉する。
渡辺氏は社長任期中に史上最高益を記録し、世界一の自動車メーカーの椅子を手にするなど、輝かしい実績を残した。一方で、行き過ぎたコスト削減によって、リコール問題や品質問題の引き金となる失策を起こしたことも否定できない。
経営者は結果がすべてである。奥田、渡辺という2大功労者をスパッと切り捨てた章男社長が今度はこの言葉の重みと正面切って対峙することになる。
(文=編集部)