トヨタ自動車は1月29日、ダイハツ工業を株式交換により完全子会社化すると明らかにした。実施時期は8月を目指すという。これとほぼ同時期に大手新聞が、トヨタ自動車とスズキは提携に向けて協議を進めていると報じた。この報道に対してトヨタ側は「事実ではない」と完全否定している。
こうした一連の動きから感じ取れるのは、「軽自動車の終焉」だ。昭和30年代から60年以上にわたり日本全国に普及してきた軽自動車という車両規定が終わるかもしれない。
そもそも、軽自動車は商用を主体とした薄利多売の儲からない商売だった。第二次世界大戦後、商用車としてオート三輪が普及するなか、小型オート三輪のダイハツ「ミゼット」などが人気を博した。また、以前の免許制度では高校生でも軽自動車が運転できたため、富裕の子息たちがマツダ「キャロル」を改造して、大磯ロングビーチの駐車場でジムカーナ競技に興じていた。
その後、高度成長期には乗用車が急激に市場を拡大し、庶民の気持ちはトヨタのキャッチコピーである「いつかはクラウン」に代表される「より大きく、より贅沢に」へと傾いていく。そうした時代の中で、軽自動車は“日陰の身”だった。
国内市場は低迷
軽自動車が一般乗用車の仲間入りをするのは、1979年のスズキ「アルト」の登場以降だ
低価格の日頃の足として、乗用としての軽自動車の存在感が増していった。90年代に入ると、トール・ハイト系と呼ばれる車体の高さがあるボックス形状の軽自動車が人気となり、そのトレンドが現在まで続いている。
90年代から2000年代の軽自動車市場の急拡大期は「スズキvs.ダイハツ」の二強時代だったが、「N-Box」の市場投入を機にホンダを加えた三強体制へと移行した。そして、日本国内の自動車販売総数の減少が続くなか、全体需要に占める軽自動車の割合は増え続け、14年度には41.0%と初めて4割を超えた。
だが、15年度は14年4月の消費増税と15年4月の軽自動車増税のダブルパンチによって軽自動車の販売総数は、前期比16.6%減と大きく落ち込む189万6000台にとどまっている。
ただし、モデルで見ると、SUVタイプのスズキ「ハスラー」やダイハツ「キャスト」、さらにスポーツカーのホンダ「S660」など、現在が軽自動車史上で最も多種多様なモデルがラインアップされている状況だ。
「軽自動車廃止の場合」を折り込み済みの設計思想
今回のトヨタによるダイハツ完全子会社化の発表資料のなかで、事業戦略の分野で「新興国での開発、調達、生産をダイハツが主体に行なう」旨が記載されている。
ここでいう新興国の代表例が、インドネシアだ。同国は東南アジアのなかでも稀な、3列シートの小型MPV(マルチ・パーパス・ヴィークル/多目的車)が人気の市場だ。04年1月にダイハツが発売した「セニア」が爆発的なブームとなり、トヨタから委託生産を受けている兄弟車の「アバンザ」と共に、インドネシアのデファクトスタンダードになっている。
こうした成功事例を基盤として、ダイハツが企画したのが「ミラ イース」だ。低燃費・低価格の技術を集大成し、日本国内では同じく軽自動車の「ムーヴ」「タント」「キャスト」へ基礎技術を伝承。一方、新興国向けでは、排気量1,000ccエンジンを搭載するグローバルAセグメントプラットフォームとして、13年に発売したインドネシアの「アイラ」(トヨタ「アギア」)に、またマレーシアでは14年発売の「アジア」に「ミラ イース」の基礎技術を応用している。
生産技術についても、大分県中津工場で行なう「シンプル・スリム・コンパクト」の思想を、インドネシアのアストラ・ダイハツ・モーター社で、マレーシアではプロドゥア・グローバル・マニュファクチャリング社で具現化している。ダイハツにとって軽自動車は、すでに日本国内専用のガラパゴス車という発想ではないのだ。
一方、スズキも、ダイハツと同様の開発思想を14年発売の「アルト」から採用している。
つまり、ダイハツもスズキも、日本国内で軽自動車規定がなくなったとしても、軽自動車の開発で培った技術を新たなる市場で“換金”するシステムをすでに構築しているといえる。
トヨタとしては今後、国内での軽自動車の需要と収益性のバランスを見ながら、軽自動車規定を続けるほうがトヨタは儲かるのか、それとも軽自動車規定を廃止へと誘導し、新興国市場で軽自動車の技術を応用することに集中するほうが儲かるのかを、じっくりと検討していくに違いない。
(文=桃田健史/ジャーナリスト)