企業経営者、特に社長にとっての最後の通信簿は「引き際の潔さ」である、と私は考えている。業績を上げて企業価値を高めることにより「人よし、我よし、世間よし」という近江商人の経営訓、換言すればCSR(企業の社会的責任)を果たすことは当然の責務だが、なすべきことをなした後、惜しまれながら身を引く人には人間としての魅力を感じざるを得ない。古くはホンダの本田宗一郎氏、近くはジャパネットたかたの高田明氏が潔い辞め方をした好例として挙げられる。
医師で政治家の後藤新平の言葉に「三流の人は金を残す。二流の人は事業を残す。一流の人は人を残す」とある。人とは自分が辞める際にバトンタッチをするに足る後継者という意味である。そもそも企業とはゴーイング・コンサーン(継続する会社)でなければならない。そのためには後を任せることの出来る後継者を育成しなければならない。
ところが、程度の差こそあれ、人間には誰でも自惚れというものがある。会社を大きくして成長させればさせるほど「私でないとダメだ」「私がいないとダメだ」という我執が生まれてくる。結果として社長の座にしがみつき、後進に道を譲ろうとしない。愛社精神が強く、成果に対するコミットメントが強ければ強いほど、「自分はまだできる」「自分しかいない」と思い込む。なかなか後継者に禅譲しようとはしない。
一度は身を引こうと思っても我執が邪魔をしてなかなか決断ができない。いつまでもトップの座にしがみついていて老醜をさらすことになる。経営者にとってげに難しいのは、老醜の愚ではない。有終の美である。
美しい身の引き方は難しい
直近の例を挙げれば、ソフトバンクの孫正義社長のケースがそれである。一度は自分の後継者として指名し、64億7800万円の報酬を支払うという条件で後継者指名したばかりのニケシュ・アローラ氏に顧問という名だけ与えて、退任に追い込んでしまった。
この変心の真の理由はわからない。孫氏の説明によると「数年のうちにグループトップの指揮を執りたい意向だったが、両者の時間軸にずれができた」ということだが、この言葉には納得性も説得性もない。経営の常識からいえば、後継者を採用した場合は、何年以内とか何年後に禅譲という基本中の基本ともいうべき話し合いと合意は事前にできているはずである。「時間軸のずれ」というのは後追い的なこじつけ以外の何物でもない。